<92> #2

2010-01-30 00:09:20

関係性の中の「わたし」④ 対話と「共話」

テーマ:エビデンスとしての日本語
あいづちの多用や終助詞の「ね」に注目し、日本人の会話スタイルの特徴について興味深い指摘を行っているものに水谷信子氏の研究がある。本エントリでは、水谷氏の提唱する「共話」という概念について見ていきたい。


(1)「先生、お忙しいところまことに恐れいりますがわたしの書いた作文を見て直していただけないでしょうか」(水谷2001)

一見、完璧な日本語である。
しかし、日本人が好むのはこのような言おうとすることを最後までいっきに言い切るスタイルではなく、むしろ次のような一つの内容を話者と聞き手が共同でつくりあげていくようなものではないだろうか。

(2)
先生、
― はい。
あのう、お忙しいところ、まことに恐れ入りますが…
― いえ、いいですよ。
この作文のことなんですが…
― はい。
ちょっと見て直していただけないでしょうか。(同上)

氏は、(1)のような表現が中心になる会話を「対話」と呼び、(2)のような表現が中心となる会話を「共話」と呼ぶ。

日本ではどちらかと言えば、(1)のように「すべてを言い尽くす話し方は、むしろ『切り口上』としてうとまれる」(1993)のではないか。(1)のように学生から言われた先生は、「こいつ本当に悪いと思っているのか?」と思ってしまいがちである。それに対して、(2)のようなしどろもどろな言い方であると、「お、反省しているな。」と思い、つい助け舟を出してしまう。

では、英語においてはどうか。水谷氏は(2)の共話的な依頼を英語で試みることにして、ネイティブのH氏に相手をしてもらった。

(3)
Professor H,
Yes.
I’m really sorry to trouble you when you’re busy.
― …
It’s about this composition but…
― …
Could you take a look at it and correct it?
― All right.

すると、(3)例の…の部分、つまり日本語ではあいづちが入る部分は、無言であったそうである。しかも、こうした英語の依頼の仕方はどうかとH氏に聞くと、

Lack of skill.

という評価が跳ね返ってきたとのこと。
日本語と英語との会話のスタイルの違いをうかがわせる興味深いエピソードである。


<あいづちの多用・引き取り完成・察し>
日本語では、(2)例に見られるように、文の終わりを待たずに語句の切れ目ごとにあいづちが打たれることがしばしばあるわけであるが、それだけではなく、次の(4)のように、未完成の話し手の文を聞き手が引き取って完成させたり、(5)のように、途中まで述べられただけで話し手の意図を了解したりということもよくある。

(4)
―きのうは上野へ花見にね、
―ああ、いらしたんですか。
(水谷1995)

(5)
あしたはちょっと野暮用がありまして…。
(と言われれば、聞き手は通常「断わり」の意図を了解する。)
(同上)

以上のような言語現象を踏まえて、水谷(1995)では次のように述べられている。

***
(原文にない改行を加える。太字も引用者。以下、同じ。)
日本語の個人的な話し合いの基本は、句読点のようにあいづちを頻繁に打って、相手の理解を確かめ、相手の言おうとすることを絶えず察し、ときには先取りして後を続けるというタイプの話し方である。
もし対話というものを厳密な意味でとらえて、相手と自分の二者が共通の理解を期待せず、察しあわず、互いに言い分を終わりまで聞いてから自分の言い分を述べるものと考えれば、「あいづち」の多用に特徴づけられる話し方は対話ではなく、筆者の造語であるが、「共話」とでも呼ぶべき話し方である。
対話では話し手と聞き手の二者がそれぞれ自分の発言を自分で完成するので、二本の話の流れが見られるが、共話では、話し手と聞き手の二者が対立せず、渾然一体となって一本の流れをつくる。
(中略)
 こうした二つのタイプの話し方があるのは、日本の社会に限らないであろうと思われるが、少なくとも日本の社会では共話が基本的な線を占めており、それが外国人に「日本語を習っても、日本的な話し方ができない」と感じさせる大きな原因になっている。
***


<「ね」、「など」「とか」「たりして」、「あれ」の多用と「共話」>
水谷(1993)では、終助詞の「ね」や、他のものの存在を暗示する「など」「とか」「たりして」等の表現も、共通の理解を前提とするものであるから、共話的な話し方に関係があるとされている。

さらに、文脈指示の「あ」系列の指示詞も、話し手と聞き手の知識の共有を前提として用いられるものであり、「あれ」が多用される話し方は、「共話」をよしとする価値観を反映しているとしている。
(ちなみに韓国語も日本語と同様指示詞には三系列ある(「イ・ク・チョ」)ものの、文脈指示においては「ク」系と「チョ」系の対立がなくなり、「そ」系に相当する指示詞(「ク」系)が用いられるそうである。つまり、韓国語には、「そ」系との対立において共有の情報であることをとりたてて示す「あれ」のような表現はないことになる。)

また、次のような例における「~てくる」の使用も共話と関係があるとする。

(6)「こないだ久しぶりに立山に登ってきましてね。」

この「~てくる」は、自分の経験を相手と分かち合おうとする態度を示す働きがあるが、このような「~てくる」は日本語の日常会話ではよく用いられるものの、外国人には学習の難しいものである。水谷は、このような「~てくる」も共通の理解を求める形式のひとつであり、「共話」と密接な関係があるとする。


<対話と「共話」の総括。そして「対話」へ>

水谷(1993)は、
***
(対話とは)相手との共通の理解を前提とせず、相手の賛同や同感をとくに期待せず、しかも自分の意思や意見を相手に理解させることを目的として話すことである。
***
と、対話を定義し、対話の成立には「きちんと筋道を立ててものを言う」必要があると言う。

それに対して、共話では、共通の理解を前提とし、相手の賛同や同感も得られるものとして、「~だよね!」と、「うんうん」「そうそう」のあいづちの連鎖により会話が進められていく。

対話への切り替えについては、次のように述べる。
***
「共話」から「対話」へという切り替えは、いわば知っている者同士の話し合いから知らない者同士の話し合いへの切り替えであり、分かり合っている者同士の話し合いから、分かり合えるかどうか分からない者同士の話し合いへという切り替えである。
***

水谷氏はなにも「共話」を否定しているわけではない。
共話にはこたつに入ってぬくぬくとくつろぐような安らぎがあるとしている。しかし、いっぽうで、こたつの外に出て、きっちりと話し合うことから逃げるべきではないし、逃げられる時代でもない。
だから、日本人は、まずは自分たちの会話の実態を知る必要があると言うのである。(水谷1993)

「日本人とディベート」というタイトルをもつ水谷(1995)では、
***
共話を成立させるものは、均質的な、集団の和を重んじる社会であり、それに対して対話的な話し方が基本になっているのは、個人主義的な考え方を中心とした社会である。
***
とした上で、次のように総括している。

***
日常的に家族や友人と「内」の世界を形成して、共話的な言語活動を主としている人間にとって、個人主義的・対話的な話し方への移行は技術の問題ではなく、意識の変革の問題である。
いわば暖かいこたつから抜け出して寒風吹きすさぶ荒野に進んでいくような覚悟が必要であると考える。
***



<補足>
補足1
対話と共話について、言語的特徴から図式的に整理すれば、次のようになろう。
対話:
完結的・自立的表現の応酬により成立。話の基本的な単位は「文」。
共話:
非完結的・依存的表現の連鎖により成立。話の基本的な単位は「語句」。


補足2 共話論の射程
「共話」とは話し手と聞き手とが一体になって「ふたりの世界」をつくるものとも言える。
これまで見てきた授受表現・終助詞・あいづち、これから見ていく予定の敬語・人称詞等は、そのいずれもがパートナー(片割れ)に対する「配慮」として用いられるものと言える。

パートナー(片割れ)に「配慮」し、パートナーとの関係に意を注ぐ。そのこと自体悪いことではないだろう。しかし、その相手(二人称)へのおもんぱかりは、自己(一人称)と第三者(三人称)、ことばを換えて言えば、主体性と公共性をないがしろにすることにつながってはいないだろうか。

この点に関しては、日本には二人称しか存在せず、一人称と三人称が欠如しているとする森有正の日本語論、日本人論をもう少し先で取り上げる中で考えてみたい。


参照文献
水谷信子(1988)「あいづち論」『日本語学』7-12
水谷信子(1993)「『共話』から『対話』へ」『日本語学』12-4
水谷信子(1995)「日本人とディベート ―『共話』と対話― 」
『日本語学』14-6
水谷信子(2001)「あいづちとポーズの心理学」『月刊言語』30-7
森有正(1977)『経験と思想』岩波書店





1 ■無題
素朴な疑問なのですが…。

「 We意識 」という時の「 We 」は
「 一人称 」なのでは…??

「 I 」と「 You 」が一体化して「 We 」になる、みたいな。(?)



( ↓ ブログを少しスリム化しました。)

2 ■日本のPTAとアメリカのPTAの違い
>里山たぬ子さん
日本には二人称しか存在しないという森有正の言い方は、確かにアクロバティックな物言いではあると思うのだけど、日本的問題性の一面を鋭く突いていると思います。

「We」は確かに一人称。一人称複数。
ある理念の下に集う人々は、一人ひとりの「わたし」が主体性をもって集うから、それは一人称複数の「We」であると言えます。
アメリカのPTA会員はそういう意味で、「 We意識 」を持っていると言えるんじゃないでしょうか。
それにたいして、日本のPTA会員に「 We意識 」があるか?と考えると、はなはだ疑問じゃありません?
(持っている人もいるかもしれないけど、ごくごく一部の人だけでは!)
つまり、そこに人の「群れ」はあるけれど、それは一人称単数=主体の集まりとは言いにくい。ということは、日本のPTAは、実は、一人称複数(We)の体をなしていないということになります。

では、その主体性の希薄な【存在】は何と呼ぶべきか?
その【存在】は、お互いに「相手」(二人称)の強い影響下にあるという点に着目し、<二人称>的な存在と呼ぶことができるだろう、というのが森の言いたいことだと思います。

アクロバテックな用語法であることは認めるけれど、森の「二人称」論は、アメリカのPTAと日本のPTAの違いをうまく説明できると思います。
アメリカのPTAにはオープンにされた理念(三人称)があり、それに賛同する一人ひとりの主体(一人称)が存在します。
いっぽう、日本のPTAには、「理念」とそれに賛同して参加する「主体」が確かな形で存在していません。
そこに存在しているのは、周りの顔をうかがう存在、二人称的な存在だけ。(ということになりません?)

ちゃんと説明できたか?だけど、突っ込んでもらえて、自分的には、「日本のPTAって、全然『We』じゃない」、ということに思い至れたように思います。
ありがとう。

ほんとうの「We」になるためには、「自動加入」なんてやっていては絶対にダメだと思うんですよね!!