<138> #2

2010-07-09 21:29:34

中根千枝氏の「タテ社会論」について(2) 「場」を強調する日本の社会

テーマ:日本人論
中根氏は、「資格」が重視されるインドとは対照的に、日本では集団の構成要因として「場」が大きな役割を果たしているとする。日本が「場」を強調する社会であることのエビデンスとしてあげられているのは、次のような現象である。

職種より社名
自らを社会的に位置づけるとき、職種よりも会社名を名乗る傾向が認められる。
プロデューサーとかカメラマンとか事務員とかではなく、「○○テレビに勤めている」という言い方か好まれる。
個人的属性としての「資格」ではなく、勤め先という「場」が前景化するわけである。

個人的にも「確かに」と思わせられる事例に遭遇したこともあるが、特に現代においてはこの指摘はやや「?」である。ただ、他国との相対比較ということでなら、成り立ちうるのかもしれない。

血縁より同居の事実
実兄弟・姉妹、娘・息子より、もとはまったくの他人であった同居の嫁、養子との関係が強くなる。血縁(資格)の同一性よりも、「家」という「場」での同居の事実が重視される。「兄弟姉妹関係(同じ両親から生まれたという資格の共有性にもとづく関係)の強い機能が死ぬまで強くつづくインドの社会などと比べて驚くほど違っている。」とされる。

家という「枠」(=場)による集団構成原理の強さは、全く血のつながりのない他人(たとえば番頭)を娘の夫(婿養子)として後継者、相続者として迎え入れることや、「奉公人や番頭が「家」成員を堂々と構成し、家長の家族成員同様の取り扱いを受ける場合が非常に多かった」という現象にあらわれている。

追記(7.12)
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(前略)インドでは日本にみられるような「家」制度はまったく発達していないのである。(いうまでもなく、日本にみられるような婿養子制度などというものはヒンドゥ社会には存在しない。ヨーロッパにおいても同様である)。
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かつての一族郎党・現代の国鉄一家
同様の構造は、中世的な「一族郎党」にあらわれている。
同じ血統、家系につながる一族と郎党に分けられるのではなく、両者が一丸となって社会集団を構成する。「その間にはしばしば婚姻も結ばれ、現実的にも、その差は不明確なほど両者は密着している」のである。

「家」「一族郎党」の現代版として、「国鉄一家」的な「労使一丸」の集団構成が認められる。


中根氏のあげるエビデンスのうちで、とりわけ印象深いのは、次の二つの指摘である。

孤軍奮闘させられる日本の嫁
日本では、嫁は、家という枠(場)の中で姑と一人向かい合わなくてはならない。
ところが、インドの農村では、長期間の里帰りが可能なだけではなく、つねに兄弟が訪問してくれて援助を受けられるし、喧嘩になると、近所の嫁仲間が応援に来てくれるという(ちなみに、姑仲間も応援に来てくれるそうです^^;)。
「他村から嫁入りして来た嫁さん同士の助け合いはまったく日本の女性にとっては想像もつかないもので羨ましいものである。
こんなことにもいわゆる資格(嫁さんという)を同じくする者の社会的機能が発揮され、家という枠に交錯して機能しているのである。」

嫁の立場そっくりの従業員
同じ構造は、企業の中の従業員にも認められる。
日本の従業員は会社の中で不利な立場に立たされた時、同業者のネットワークによる援助を期待しにくい。
組合も日本では企業単位で成立していて、他国のように職業別組合(クラフトユニオン)が確立していないからである。
つまり、日本の嫁と同じく、資格を同じくする者の支援は期待しにくいわけである。


以上、家、会社、労働組合のあり方等にあらわれている、日本社会における「場」の役割の大きさを見た。





1 ■なるほど・・!
>喧嘩になると、近所の嫁仲間が応援に来てくれるという
なるほど、インドが横社会というゆえんが、ここにあるのですね・・!(笑)

2 ■Re:なるほど・・!
>猫紫紺さん
ここは、ひと言、「ヨコ社会」とのつながりをコメントしておくべきところでしたね。
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