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2010-08-04 23:25:16

従来型の“つながり”を超えるには ― 広井良典氏の考察(その1)

テーマ:日本人論
「新しい公共」宣言には、“つながり”というものに対する無条件的な肯定が感じられてならない。
大昔のムラ社会(結・講・座)の再興のようなことを呼びかけてみたり、葉っぱを集めて村の老人が年収1千万、皆病気もしないで生き生きと暮らしています! なんていう、超レアケースを全国どこででも実現できるかのように語ってみたり。
それは日本昔話であり、おとぎ話でしょと突っ込みを入れたくなるのだ。

それに対して、現代の日本において求められる、また求めうる“つながり”を考えようとしているのが、広井良典氏『コミュニティを問い直す ― つながり・都市・日本社会の未来』(ちくま新書)だ。

氏は、コミュニティを「農村型コミュニティ」「都市型コミュニティ」に分けている。
氏は、それぞれについて次のように定義している。

**(引用)**
ここで「農村型コミュニティ」とは、“共同体に一体化する(ないし吸収される)個人”ともいうべき関係のあり方を指し、それぞれの個人が、ある種の情緒的(ないしは非言語的な)つながりの感覚をベースに、一定の「同質性」ということを前提として、凝集度の強い形で結びつくような関係性を言う。

これに対し「都市型コミュニティ」とは、“独立した個人と個人のつながり”ともいうべき関係のあり方を指し、個人の独立性が強く、またそのつながりのあり方は共通の規範やルールに基づくもので、言語による部分の比重が大きく、個人間の一定の異質性を前提とするものである。(p.15)
(改行、色づけ引用者)
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なお、ソーシャルキャピタル(社会関係資本)の型からみると、「農村型コミュニティ」は結合型(bonding)であり、「集団の内部における同質的な結びつき」がその特徴といい、いっぽうの「都市型コミュニティ」は、橋渡し型(bridging)であり、「異なる集団間の異質な人の結びつき」であることがその特徴とする。


広井氏は、このように“つながり”のあり方を二分した上で、日本社会において圧倒的に強いのは「農村型コミュニティ」であるとする(p.16)。

農村型コミュニティは、かつては生産の場と生活の場が重なっていた農村において典型的に認められたコミュニティ(=ムラ)であり、そのムラは、戦後の高度経済成長期も会社や核家族の中に存在していたと言う。しかし、現在、会社も家族も個人の帰属の場所である力を失いつつあり、農村型コミュニティに人々の居場所を求めることは難しくなっている。

また、農村型コミュニティは、「『明示的な禁止』や『言語化されたルール』はむしろ少ないのだが、個々の微細な調整が累積した「空気」が重く存在し、それによって身動きがとれなくなるような社会のあり方」ともつながるとも指摘する。
さらに、原理原則ではなく、「個別の状況ごとの調整」によって動く社会は、「一歩間違えると、それはその当事者間の『力関係』や“場の雰囲気”によって物事が決められてしまうというおそれを常にはらんでいる」とも言う。
(なお、元官僚、現千葉大学教授である広井氏は、「私自身の経験では、日本社会は、見えないところでこうした『力関係』で物事が動いている部分がかなり大きい社会であるように感じている。」と述べている。)
(p.244~245)


そこで求められるのが都市型コミュニティというわけである。
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日本社会における根本的な課題は、「個人と個人がつながる」ような、「都市型のコミュニティ」ないし関係性というものをいかに作っていけるか、という点に集約される。(p.18)
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広井氏の言う「都市型コミュニティ」が、前記事で取り上げた土居氏の指摘する日本社会の問題性を乗り越えようとしているものであることは、言うまでもないであろう。

「新しい公共」を今後も国が進めようというのなら、ぜひとも広井氏の問題意識を取り込んでいくべきではないかと思う。


「新しい公共」が町内会やPTA等の従来型組織の負の側面にほとんど何にも目を向けていないことは、ほんとうに恐ろしいことだと思うのだ。
いったい、どこが「新しい」ちゅうねん!なのです。

これでは、「新しい」公共ではなく、「なつかしい」公共ではないのだろうか。