<154> #2

2010-08-08 00:17:17

今日の<フォーラム PTAは新しい公共を切り開けるか>で言いたかったこと(その2)

テーマ:PTAと「新しい公共」
(各論篇です。)
では、公教育の世界において「集団」の声ではなく、「個人」の声に耳を傾けるにはどうすればいいか。
今回の「新しい公共」宣言の流れの中で、元文部官僚の寺脇さんが、「従来のPTAを整理整頓して、保護者と学校の連絡や相談のための『保護者会』と、社会教育活動を行う団体としての『PTA』に分けるとよい」という主張をされているのが大きなヒントになると思っています。

実は、この素晴らしい考え方、残念なことに、最終的な「新しい公共」宣言別添資料におけるPTA関連提言からは落ちてしまっているのですね。
なお、本フォーラムにて寺脇さんが提示された資料は、↓の資料の14ページ冒頭。
http://pta-forum.up.seesaa.net/image/PTA_forum_documents.pdf

ただ、この資料、円卓会議の提出資料をまとめてある内閣府のサイトにはないのですよね?
今日、寺脇さんに、その資料、内閣府のサイトでは見かけなかったのですが?とうかがったところ、6月4日の会議(第8回←最終回)に出したのですがね…とおっしゃるのです。
先ほど、見に行ってみましたが、やはりありませんでした・・。
う~ん、なんでだろ。私の見落としの可能性もありますが。今度内閣府に確認してみます。


話を元に戻します。
この資料において、PTAと保護者会が分離されているところにご注目ください。
また、この考え方は、カワバタさんの「どうしても必要な委員会は学級PTAだけなのでは」という本日の提言ともつながる主張だと思います(↑の資料9ページ)。

ただ、ここから円卓会議・寺脇さんと考えが違ってくるのですが、国が本腰を入れて支援をすべきなのは、PTAのほうではなくて、保護者会のほうではないのですか、と言いたいです。

だいたい、これまでPTAと保護者会の線引きが文部行政のうえできっちりとなされていなかったことは無茶苦茶な話で、それが今切り分けられようとされているのは、ほんとうに素晴らしいと思うのですが、もう一歩進めるべきではないかと思うのです。

なぜなら、任意加入の団体であるPTAを支援し、そこを通して保護者の声を吸収するというなら、PTAに入らない保護者の声はどうなるのかと言いたいのですよ。

まずは、保護者会で担任と保護者が密に連携をとる。
これが、基本中の基本ではないでしょうか。
今日のカワバタさんの話にあったように、新学期、学校に出かけてみたら、担任の先生との話は5分で終わり、あとは延々クラスで何時間もPTAの役員決めをするというのは本末転倒にもほどがある。

公教育において、保護者の声を吸収したい、ボトムアップの実現を!というのなら、なぜ、日々現場でそのお子さんを通して保護者と向かい合っている担任を使って声を集めようとしないのか。
そこが不思議で仕方がありません。

本線としてそのラインが太いものとしてある。
それとは別に任意加入の団体であるPTAのラインもある。
こうあるべきではないのかと思うのです。

寺脇さんの提言は、本線と支線のバランスが逆になっているところが、私的には惜しいなと思うのです。

そして、もちろん、保護者個々には、様々な考えがあります。
身勝手な考えもあるでしょう。
でも、そこは、最終的にクラスのことは担任の先生が、学校全体のことは校長先生が判断すべきかと。
そして、保護者は公教育を担う専門家の最終的な判断には基本的には従うべきかと。

以上でわたしの話は終わりますが、この考えって、実は、「熟議カケアイ」の考え方と瓜二つだと思うのですがね。





1 ■そうだそうだー!
>本線としてそのラインが太いものとしてある。
>それとは別に任意加入の団体であるPTAのラインもある。
>こうあるべきではないのかと思うのです。

まるおさん、ハッとさせられました。
まったくもって御意であります!!

2 ■Re:そうだそうだー!
>猫紫紺さん
遅レス、失礼いたします。
拙コメントへのご賛同、ありがとうございます!

なぜ主従の逆転が起こってしまっているのか?
その背景について、ちょっと考えてみました。

ひとつには、「PTA」の所管が(もめたようですが)文部省の学校教育部局ではなく、社会教育部局になってしまったことがあるように思います。

PTAがその趣旨通りに社会教育関連団体の活動に特化されていればよかったのでしょうが、実際は保護者と学校の連携の窓口の役割を果たした。
そして、本来なら、学校教育担当部局が保護者との連携にかかわる制度設計を考えるべきところなのに、社会教育部局への「遠慮」から口出ししにくくなってしまった。
個々の保護者の意向を直接的に吸収しようとせず、PTAという集団を通して保護者と連携しようとしてきたことの背景の一つには、このように、担当部局の問題があるように思います。

保護者との連携という学校教育にとって非常に大切な問題が、学校教育担当と社会教育担当の間に落ち込んでしまったといいますかね。

その結果、教育行政において、PTAとは独立した形での保護者と学校との連携の姿がまともに検討された形跡がいまだかつてないようだし、それは現実問題としても曖昧模糊としている、と。
これでは、学校との連携を求める保護者(それを求めない保護者などいないでしょう!)にとってはPTAに入らないという選択肢は与えられていないも同然です。


では、なぜ個々の保護者と連携せず、「任意参加」の集団を通しての連携という世にも奇妙な形が、これまで問題にされず、放置されてきたのか?
担当部局の問題のもうひとつ奥に問題があるように思います。

この問題を考えるには、恒吉僚子『人間形成の日米比較 隠れたカリキュラム』で問題にされている、特殊日本的な「児童・生徒へのアプローチ」との関連に注目すると面白いと思っています。
この点に関しては、出来るだけ早くエントリしたいと思っています。