<180> #1

2011-05-27 21:47:49

情意表出的用法成立の背景 ―構文的な特徴の延長として―

テーマ:「だから」の情意表出的用法成立の背景
ここまで、「だから」のみならず、「~わけだ」・「~のだ」、そして「やはり」にも、論理が消失し情意が突出する「情意表出的用法」が存在することを見てきた。
なぜ、日本語においては、そのような用法が存在するのだろうか?


<日本語の構文的特徴>
その疑問を解くカギは、日本語の構文的特徴(=自然な「文」が成立するための特徴)のうちにあると考えている。
日本語の構文的な特徴として指摘できるのは、次の二点である。

a.「事態を成り立たせるもの」に対する拘りの弱さ
(ナル的性質)
b.「事態と『自ら』との関係」に対する拘りの強さ
(立場志向性)

「a」の側面については、

①英語等と比較して自動詞構文が好まれる、
②「~ように思える」、「~と考えられる」等の自発表現が存在する、
③「この度、結婚することになりました」などの「なる」を補助動詞に使った言い方が存在する、
さらに
④主語(そして目的語)が文成立の必須的成分ではない、

等の構文現象がそのエビデンスとして指摘できる(最後の点を除き池上(2006)他)。

いっぽう、「b」の側面に関しては、敬語・授受表現・迷惑受身・多様な人称詞・終助詞等、「話者の立場」に関わる表現が文成立の必須成分とも言うべき存在になっていることが指摘できる。日本語(の特に話しことば)にあっては、これらの表現要素を反映させないことには自然な「文」が成り立たない。
注1: 「b」の側面に関しては、水谷(1985)における、授受表現、迷惑受身、敬語等をとりあげての日本語の「立場志向性」に関する考察に示唆を得ている。

「a」は(欧米語にはあって日本語にはない)日本語の凹的側面、「b」は(日本語にはあるが欧米語にはない)日本語の凸的側面と言うことができる。


<情意表出的用法と「ナル的性質」>
さて、先に見たように、情意表出的用法においては、先行命題が消失・希薄化するわけであるが、それは、日本語のナル的性質の現れ、ないしは延長として理解されると考えている。
というのも、これまで「先行命題」と呼んできたものは、判断・主張についての広い意味での「根拠」と言え、そして「根拠」とは判断・主張を「成り立たせる」ものに他ならないからである。

池上嘉彦氏は、「~ように思える」「~と考えられる」の類の「自発」表現を「主体なき行為」ととらえ、「主体なき行為」とは欧米人からすると「矛盾した概念でしかあり得ない」(p.335)と述べている(池上(2007))。
ところで、「主体なき行為」と「根拠なき主張」とはパラレルなものと言えよう。主体も根拠もともに「成り立たせるもの」としての共通性を持つからである。両者が共通性を持つことは、「行為の主体」も「判断の根拠」も「~によって」というひとつの表現によって示されることからも見てとれる。

この建物は有名な建築家によってたてられた。(行為の主体)

今回我々は、○○によって、××との結論に至った。(判断の根拠)


<情意表出的用法と「立場志向性」>
先に見たように、日本語においては、ナル的表現が好まれ、主語や目的語が大胆に省略される。いっぽうで、「『自ら』との関係」にかかわる敬語や授受益表現や迷惑受身の類は省略することが基本的に許されない。

「今日、財布を盗まれちゃってさ。」
(??「今日、だれかが私の財布を盗んでさ。」)

「友達にお金を貸してもらったよ。」
(??「友達がお金を私に貸したよ。」)

(恩師に対して)
「先生、明日も来ていただけますか。」
(??「あなた、明日も来ますか。」)

上のような例から、日本語においては、事態と「自ら」との関係性を反映した表現を使わないと自然な「文」が成り立たなくなることが了解される。それだけ、日本語にあっては、「事態と自らとの関係性」に強い拘りを持つということだろう。

(「超命題的立場指向性」)
ここで留意しておきたいのは、今問題にしている話者の「立場」とは、

「~は~である。」
とか、
「私は~と考えている。」

といった判断の述語部分で表明される「立場」とは違うということである。
すなわち、敬語や授受表現や迷惑受身等で表明される「立場」とは、超命題的に表されるものということになる。
※ここでは「命題」ということばを、「判断の内容を言語で表したもの」(明鏡国語辞典)というごく常識的な意味で用いている。

(補足)
一口に「敬意」や「謝意」と言っても、
「先生、明日も来ていただけますか。」
のような敬語や授受益表現によって「暗示」的に表される場合と、
「私は○○先生を尊敬している。」
「私は○○先生の来訪に感謝している。」
のように、「述語」として明示されるものとの違いに留意したい。
後者の意味での「立場」なら、何語であっても表現できる。


命題における述語部分以外のところで、つまり超命題的に、話者の「立場」を表明する性質を色濃く持つ日本語が、情意表出的用法と名付け考察してきた一連の表現を持つことは、決して不思議なことではない。情意表出的用法によって表される情意とは、超命題的に表明される「立場」に他ならないからである。

かくして、情意表出的用法とは日本語の構文的特質に深く根差した現象である、というのがとりあえずの結論である。

なお、非命題的用法を日本人のメンタリティーとのかかわりの中で探るのは次のブログテーマとしたい。
注2:この問題を考えるにあたっては、森有正の「現実嵌入」(『経験と思想』)、丸山眞男の「基底範疇としての『なる』」(「歴史意識の『古層』」)、水谷(1993)の「共話」の概念が参考になる。


文献
池上嘉彦(2006)『英語の感覚・日本語の感覚―“ことばの意味”のしくみ』(日本放送出版協会)
池上嘉彦(2007)『日本語と日本語論』(ちくま学芸文庫)


追記
このテーマにおいてつらつら述べてきた内容は、明後日、5月29日に神戸大学で開かれる日本語学会春季大会にて発表します。
とりあえず最後までまとまったらお知らせしようと思っていたら2日前になってしまいました^^;。
(「予稿集」原稿自体は3月下旬に提出しています。)
足元がすくむような思いもいたしますが、プレッシャーや諸先生からの突っ込みを肥やしに、一歩でも考えを前進させることができればと思っています。

追記2(2011.6.7)
発表後の質疑の中で寄せられたご意見を紹介しておきます。

・「だから」の非命題的用法においては、先行命題が「話者の頭の中にはある」と理解していいか。(早大大学院生O氏)

・いわゆる「モダリティ」論との関係はどうなっているか。(S氏 ※所属は聞き洩らしました)

・「それで」にも、「それで、(さっき話していた)相談というのは、どういったこと?」のような、「関係構成的」とは言い難い用法があると思うが。(国立国語研究所N氏)

・「だから」の情意表出的用法等を日本語の「ナル的性質」と結び付けているが、むしろ、「それで」にくらべて「だから」には「スル的性質」が認められるように思う。(広島大学K氏)

この最後の質問と同趣旨の疑義は、当日発表を聞きに来てくれていた青学大学院聴講生のT氏からも寄せられている。
結論を変える必要は今のところないと考えているが、「ナル的性質」との結び付け方に関してもう一工夫が必要だったと反省しているところ。
今のところの一応の結論を述べれば、「ナル的性質」と「だから」等の非命題的用法を直接的に結びつけるのではなく、大元に「起因に無頓着な傾向」を設定し、そこからの展開として、単文レベルにおいて「ナル的性質」があり、複文レベルにおいて「非命題的用法」の成立がある、と整理するのがいいかと思い始めた。

質問をしてくださった方々にこの場を借りて御礼申し上げます。





1 ■会場でいただいた「質問」
このエントリの最後に、会場からいただいた「質問」を追記しました。