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2011-08-28 00:28:39

日本語的な「視点」について

テーマ:PTAと日本語の中に見られる「二人称性」
先日のエントリ<小平手話サークル主催講演会と小平市手話通訳者養成講習会にて>(2011.07.29)で少し触れた日本語的な「視点」について何回かに分けて考えていきたいと思います。


<「あげる」と「くれる」の使い分け>

1.鈴木さんが佐藤さんにプレゼントをあげた
2.鈴木さんがわたしにプレゼントをくれた

例文1も例文2も、主語がプレゼントの「与え手」である「鈴木さん」という点は同じである。違っているのは「受け取り手」の部分で、「受け取り手」は1では「佐藤さん」、2では「わたし」になっている。

ここで注目したいのは、2の例を次のように「あげる」を使って表現することは難しいことだ。

2'.??鈴木さんがわたしにプレゼントをあげた

ところで、受け取り手が「佐藤さん」の時は「あげる」でいいのに、なぜ受け取り手が「わたし」になると「あげる」ではおかしくなるのだろうか?
それは「あげる」を使うと、自分が「受け取り手」であるのにまるで他人事のように語っているように聞こえてしまうからと言っていいだろう。


<「あげる」と「くれる」の使い分けに認められる特異性>
ここまでの話を読んで、「当たり前のことを何をごたごたと説明しているのか?」といぶかしく思われた方もいるかもしれない。しかし、今見た「あげる」と「くれる」のような使い分けをするのは、実は、世界の言語の中でも極めて珍しいことなのだ。

英語を例に考えてみよう。例文1の場合も例文2の場合も、つまり、受け取り手が「田中さん」であれ「わたし」であれ、次の3,4例に見るように、英語では「give」という一つの動詞が用いられる。「くれる」に相当する「わたし」が受け取り手である場合に特化した表現は存在しない。

3.Mr.Suzuki gave a present to Mr.Sato
4.Mr.Suzuki gave a present to me

受け取り手が「わたし」であれ誰であれ一つの動詞が用いられるというのは、中国語や韓国語も同様である。
英語の「give」と同じように使われる動詞は、中国語は「給(ゲイ)」、韓国語は「주다(チュダ)」となる。
そして、その他のほとんどすべての言語も英語や中国語や韓国語の方式と同じであるようなのだ。

Newman(1996)は、授受動詞としての「give」に相当する表現について世界の100を越える言語について調査を行っているが、日本語の「あげる」と「くれる」のような区別をする言語は、日本語以外ではアフリカのマサイ族の言語のみであるとしている。
(Newman,John.1996.Give:A Cognitive Linguistic Study.Berlin:Mouton de Gruyter.)

※「あげる」と「くれる」の使い分けについては、過去記事<関係性の中の「わたし」 ①授受表現(その1)>(2009.12.15)でも触れた。


<「あげる」と「くれる」を使い分けることの背景>
「わたし」の特別扱い
日本語とマサイ族の言語にのみ認められる方式と英語・中国語等の世界のほとんどすべての言語に認められる方式との違いは何を意味するのだろうか。
両者の違いは、一言で言えば、「わたし」の扱われ方の違いにあると言える。

英語・中国語等においては、「わたし」、つまり一人称は、二人称や三人称と同列に扱われていると言える。先に見たように、受け手の位置に「わたし」が来ようが「あなた」が来ようが「彼」が来ようが、「give」、「給」といった同じひとつの表現が使われるのだから。
英語の「give」、中国語の「給」が表現するのは、人物Aから人物Bへのものの授受であり、「わたし」はあくまでも文中の登場人物の一人としての扱いを受ける。

ところが、日本語(とマサイの言語)においては、「あなた」や「彼」が受け取り手の時は「あげる」が使われるのに対し「わたし」が受け取り手になった時には「くれる」という特別な表現が【わざわざ】用いられ、同じ一つの表現で済ますことは許されない。
日本語(とマサイの言語)においては、「わたし」が特別な扱いを受けているということができる。

特別扱いの背景 ―自己密着・「わたし」の非対象化
英語等の授受表現においては、「わたし」が「あなた」や「彼」と同列に扱われていることを見た。
このことはとりもなおさず、英語等においては、「わたし」が突き放して扱われている、つまり、「わたし」が対象化されていることを意味するだろう。

生身の「わたし」から距離を置いた、自己超越的・第三者的な「視点」が存在していると言ってもいい。

逆に言えば、「わたし」が「あなた」や「彼」とは同列に扱われず特別扱いされている日本語の場合、「わたし」は対象化されていないということになる。
そこにあるのは、生身の「わたし」に密着した自己密着的・自己中心的な「視点」と言うことができる。


<自己密着的・自己中心的な視点がもたらすもの>
ここで角度を変えて、「自己密着的・自己中心的な視点」が表現するものとはどのようなものか考えてみたい。
以下のようなことが言える。

・「わたし」との関係性が表現される。
・「わたし」からの「見え」が表現される。

つまり、「自己密着的・自己中心的な視点」が相対的に強い言語では、事態が第三者的・客観的に描かれるのではなく、生身の「わたし」とのかかわりをもって描かれる傾向を強く持つということになるだろう。

「自己密着的・自己中心的な視点」から「わたし」とのかかわり・「わたし」からの「見え」を表現しているのが、先に見てきた「あげる」・「くれる」ということになる。


<「自己密着的・自己中心的な視点」が色濃く認められるエビデンス>
そして、なにも、日本語においての「自己密着的・自己中心的な視点」と関わる表現は「あげる」・「くれる」だけではない。
本ブログでこれまで取り上げてきた、

・敬語
・多様な人称表現
・授受益表現(「~てあげる」・「~てくれる」「~てもらう」)
・迷惑受身(「弟にケーキを食べられた。」)
・終助詞
・あいづち

といった表現群は、みなこの日本語的な自己密着的・自己中心的な「視点」を反映したものと言うことができる。

これらの日本語に特有のあるいは日本語に特徴的な表現は、いずれも「わたし」と「相手」、「わたし」と「出来事」の関係、つまり、「わたし」とのかかわり・「わたし」からの「見え」を反映する表現であることに留意したい。
※ここで取り上げている一連の表現に注目し、日本語的な視点に早く注目した研究に森田良行氏のものがある(文献一覧参照)。

※「弟にケーキを食べられた。」の類の「迷惑受身」と呼ばれるものについて一言。
この類の受身は、「ケーキを食べられた」の「を」に見られるように、形式的には能動文のヲ格が受動態においてもそのままヲ格で用いられる点、意味的には話者の被害感情・迷惑感を表す点において日本語に特徴的な表現とされる。



以降、

・日本語的な視点を反映する表現群の具体的考察
・日本的な人間関係と今回取り上げた日本語的な視点とのかかわり
・その各論として、PTA問題と日本語的な視点とのかかわり


などについて触れていければと思っています。


(お断り)
今回とりあげる日本語的な「視点」の問題については、すでに森田良行氏、池上嘉彦氏、金谷武洋氏等によってとりあげられてきたものです。
以降の考察でも、先行研究とのかかわりはその都度言及する予定でいます。


≪日本語的「視点」に言及した文献≫
池上嘉彦(2003-04)「言語における<主観性>と<主観性>の言語的指標(1)-(2)」『認知言語学論考』No.3 No.4
池上嘉彦(2006)「<主観的把握>とは何か」『月刊言語』Vol.35・No.5
池上嘉彦(2006)『英語の感覚・日本語の感覚』NHKブックス
池上嘉彦(2007)『日本語と日本語論』ちくま学芸文庫

金谷武洋(2004)『英語にも主語はなかった 日本語文法から言語千年史へ』講談社選書メチエ
金谷武洋(2010) 『日本語は敬語があって主語がない ― 「地上の視点」の日本文化論』 光文社新書

森田良行(1984)「日本語の発想と論理」『日本語学』3巻4号
森田良行(1998)『日本人の発想、日本語の表現』中公新書
森田良行(2002)『日本語文法の発想』ひつじ書房