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2011-01-12 23:32:22

「自動加入」が侵す「自由」とは  ―丸山眞男に学ぶ(1)―

テーマ:日本人論
丸山眞男(1947)「日本における自由意識の形成と特質」(同『戦中と戦後の間』、『丸山眞男集 3巻』所収)に、「自動加入」の違法性を考える上で参考になる「自由」についての考察がある。

それは概略、以下のようなもの。
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17世紀のイギリスには、「自由」についての二つの考え方があった。
一つは、絶対主義勢力のもので、それによると、「自由」とは、「各人が好むことをなし、勝手に生活し、いかなる法にも拘束せられない」状態だった。この意味での「自由」は非理性的な動物にも、いや植物にさえも適用できるものである。このような「自由」に対する考え方は、君主(国家)主権と専制主義の基礎付けとなっていた。

そして、もうひとつの「自由」に対する考え方は、新興市民階級サイドのもの。名誉革命の思想家ジョン・ロックにあっては、「自由」という観念は「行為者が精神の決定或いは思考に従って特定の行為をし又は思い止まる事のいずれかを選択しうる能力」を意味し、従って、行為の前に、行為の結果の善悪を精査(エグザミン)し、勘考し、判断する充分の機会を持つということが自由の前提となる
このロック的な意味の「自由」は本質的に理性的存在者のものであり、人民主権と民主政の基礎となる思想であった。

「自由」を単に「拘束されない状態」と考えた場合、(その意味での)「自由」に任せると無秩序を招来するので、それは拘束されるべきものとなる。一方、ロックのように、「自由」を「理性的な自己決定能力」ととらえると、それはより良い社会を形成するために欠くべからざるものとなるわけである。
(ちなみに、このエッセイ全体の結論は、明治維新において日本人が得た「自由」は残念ながら前者の意味での「自由」であり、戦後の日本における課題は、後者の意味での「自由」をわれわれが手にすることである、というもの。)

※色付け、引用者。なお、原文での「傍点」は「斜体」で示した。
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ところで、日本国憲法では、前文で主権が国民にあることが宣言され、続く本文において、「すべて国民は個人として尊重される」(13条)とされ、「(国民の)思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」(19条)と規定されている。

憲法で保障されている「自由」とは、言うまでもなく、前者の「自由気ままにふるまう自由」ではなく、後者の「理性的な自己決定能力」のことであろう。

「自動加入」の違法性を考えるに際しては、私は特に「『理性的な自己決定』を行うための前提」とされる部分に注目したい。
先に赤字で紹介した↓の部分だ。
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行為の前に、行為の結果の善悪を精査(エグザミン)し、勘考し、判断する充分の機会を持つということが自由の前提となる。
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PTAがたとえどんな崇高な目的を掲げようと、それが「任意に構成される団体」である以上は、個々の保護者に、その団体に入るべきか否かを「精査し、勘考し、判断する充分の機会」が与えられる必要がある。
保護者一人一人が「理性的な自己決定」を行えるように。

そして、看板倒れの団体は国民(保護者)一人一人の「理性的な選択」の結果淘汰されていく、というのが民主主義の考え方ではないだろうか。


国民一人一人の「理性的な自己決定」は、民主主義の基礎である。
「自動加入」は、その意味での「自由」を侵していると思う。