<141> #6

2010-07-16 21:28:45

中根千枝氏の「タテ社会論」について(4) 「場」による集団と「タテ」組織(ⅰ)

テーマ:日本人論
<「場」と「タテ」の関係のつながり>
中根氏は、人間関係を「タテ」と「ヨコ」の関係に分ける。
タテの関係とは、同列におかれないA・Bを結ぶ関係であり、ヨコの関係は、同質のもの、あるいは同列に立つX・Yによって設定される。
親子関係、上役・部下の関係はタテの関係であり、兄弟姉妹の関係、同僚関係はヨコの関係である。

組織が形成される場合には、タテ・ヨコいずれも重要な関係設定要因となるが、社会によって、タテの関係がより強く機能するもの、ヨコの関係のほうがより強く機能するもの、両者同等に機能するものがある。

そして、日本に特徴的な「場」の共有によって構成される集団は、個人的属性(資格)の異なるものを包含するので、その構成員を結びつける方法は「理論的にも当然『タテ』の関係となる」。
いっぽう、「個々人に共通する一定の資格によって集団が構成される場合は、その同質性ゆえに『ヨコ』の関係が機能をもつ。」

ヨコの関係は、カースト、階級的なものに発展し、タテの関係は親分・子分関係、官僚組織によって象徴されるとされる。


<「資格」は同じなのに設定される「上下関係」 ― 序列の重視 ―>
中根氏は他の社会に比し、日本社会はタテの関係が強い機能をもつとするわけだが、そのエビデンスとしてあげられるのは、日本においては個人的な属性(資格)が同じでありながら、そこに上下の差(=「序列」)が設けられるという点である。

たとえば、イギリスやアメリカの大学では、教師と学生の間には一線が引かれるものの、「資格」を同じくする教員同士、学生同士の間には日本のように差が設けられない。

それに対して、日本では、同じ学生であるのに先輩・後輩の区別がきっちりと付けられるのがふつうであるし、教員の間にも同様の構造が認められる(同じ教授でありながら、発令の年月日により序列が付けられる等)。
「資格」は同じなのに、「場」への参入時期により差がつけられるわけである。

アメリカなどでは博士号をとり教員の仲間入りをすると、その日から教授たちをファーストネームで呼べるという。日本では全く考えられない話である。
鈴木孝夫氏も言うように、日本人にとっては恩師は何十年経とうと恩師であり、自分が【同じ】教師の立場になろうと「○○先生」と呼ぶ以外考えられないわけである(『ことばと文化』)。

まるお注釈:
日本では「場」への参入時期が大きな意味をもつことは、大学であれ、会社であれ、その参入年次が「敬語」の使われ方にも強く影響していることからうかがえる。
後輩は先輩に対して、
「○○先輩、明日、どうされます?」
というように敬語を使っての丁重なもの言いをし、先輩は後輩に対して、
「俺はあしたは、やめておくよ。お前は行くの?」
というように敬語抜きの言い方になる。

浪人等の事情により同年や年下の学生の「後輩」になった場合、日本ではその相手を「先輩」として遇することがふつうだ。「先輩」も「後輩」を後輩として扱う。
(もっとも、社会人入学に見られるように、年齢差が誰の目にも明らかであるような場合は、別の配慮が働くものと思われる。たとえば、「先輩」のほうも「後輩」に丁寧な言葉遣いをするというように。)

ところが、おもしろいことに、日本と同様に敬語の発達した韓国では、組織(「場」)への参入年次よりも、「資格」の一つと言うべき「年齢」が大きな意味をもつそうだ。
たとえ自分が「先輩」であっても、相手が年上であれば、丁重なもの言いをするとのことである。
韓国においては、初対面の相手に年齢を聞くことが多いそうであるが、それにはここで述べたような事情があるわけである。


<同僚意識と同族(一族郎党)意識>
タテ社会かヨコ社会かの違いは、「仲間意識」(←中根氏はこの表現は使っていない)にも違いをもたらすとされる。先回りして言えば、ヨコに連なる「仲間意識」か、タテに連なる「仲間意識」か、である。

中根氏は、資格の一致が重視されるインドや欧米の社会には階層的な分化(教師・学生、カースト間の分化)が認められるいっぽう、同じ階層に属する者の間には「同僚意識」が強く、「連帯性」が生まれると言う。
それに対して、「場」の共有を重視する日本のような社会に認められるのは「同族意識」であるとする。

大学を例にすれば、アメリカなどの大学では、教師と学生との間の「階層的な分化」はあるけれども、資格を同じくする学生同士、教員同士の区別はなく(弱く)、「同僚意識」が強く働く。(まるお注:ヨコに連なる「仲間意識」と言っていい。)

いっぽう、日本では、同じ研究室、同じ教室(すなわち、「枠」)に籍を置く者の間に、教授を頂点とした、准教授、講師、助手、院生、学生という「タテ」の関係による結びつきが強く存在する。そこでは、教員・学生双方の間にも先輩・後輩の序列がはっきりと存在し、同資格者の間に認められる「同僚意識」は弱く、代わりに「同族意識」が生じるとする。
(まるお注:これは、タテに連なる「仲間意識」と言っていいだろう。)

**(引用)**
このように教授陣・学生陣ともに内部分化を起こしているため、教授と学生という差が、比較的に弱まり、他の社会に比べて、教授と学生の差が、ぐっと収縮され、同質のものの間の序列の一延長のごとき感さえもってくる。かくして、両者を区別する線の機能がぐっと弱まり、階層分化の機能を弱めている。
*********

引用部分に見られるように、中根氏は欧米やインドに比べ、日本は「階層分化」の機能が弱いと述べている。氏の「タテ社会論」は、日本は上下関係、身分差の強い社会であるといった議論とは異質のものなのである。





1 ■無題
【年功序列】のピラミッド構造で構成させてるとこなんか、学識無知な団塊以上のクソオヤジ連中ばっかで何かと言うと、「最近の若者~」と言うわりに、若者に対して政治経済の事について、今の団塊世代以上の高齢者はついぞ何も教えようとしない。
若者が政治知識を得る事を、本心では恐れているんだよ。
つまり何も知らずに命令に従う従順で妄信的な若者が欲しいんだよ。
上の世代の人間が舌を巻くほどの政治知識がある若者がいると、「可愛気がない」とか言って敬遠する。
これは自らの支配権を延命したいという願望のためなんだ。
内心ではバブル期において自らが何をやり、その後の時代において後世の事など 一切考えずにメチャクチャな政治をやって来たと、自覚している部分がある。
「お前らは孫の世代から借金をして遊んできて、この国を破綻させたんだろ!」 と言われた場合に何も言い返す言葉がなくなる。
一人の父親になった若者にとっては「子供の将来」が何よりも大切なのは当たり前の事なんだ。
その若者が上の世代の責任を問いつめるのも当然なんだね。
知恵をつけた若者は、今の老人の堕落を必ず弾劾する事になる。
つまり厳しく詰問され弾劾される事が怖いから、若者に知恵をつけて欲しくないんだよ。

2 ■Re:無題
>ABCさん
どうも、はじめまして。
年長者が若輩に対し盲目的な従順を求めるというのは、タテ社会のもたらす負の側面のひとつだと思います。

このような、いわば社会的な手抜きが延々とまかり通ってきたのは、四方を海に囲まれることで他国(大陸)からの侵略は受けずにすみ、しかも、大陸との距離がつかず離れず的なものであったため、自分たちのほしい大陸文明の果実はふんだんに取り入れることができた、という世界の中でも奇跡的に恵まれた地政学的条件のおかげなのだと思います(鈴木孝夫『閉ざされた言語・日本語の世界』)。

私は若者と老人のちょうど中間、やや老人寄りですが、ABCさんの老人に対する怒りに共感するところがあります。
特に、「最近の若者は~」なんて言うのは、どの口が言っているのだと前々から思っていました。

3 ■Re:無題
>まるおさん
最近、定年退職をした65歳以上を再雇用してる企業が増えてきたからな。
おかげで若者の失業率が上がってきて、団塊以上の高齢者に対して不満が爆発してるよ!
とくに1970年代生まれの30代はなおさらだよ。


4 ■Re:無題
>ABCさん
教養の身につくための豊富な知識は何も提供せずに、若い身空だと何も知らないと思っていい気になって、ホラ吹いたり、知らないことを知ったかぶってまで
エセ知識を振りまく子供騙しばかりやってきたからな!
イエスマンを強制させたいから、揚げ足を取ってでも違うことや間違ったことでも強制的に肯定させてるからな。
おかげでどれだけ『何が普通か』も判らず、おかしいなことを「おかしい」とはっきり言えなくて○×のつけ方もわかんない判断力のない奴が育ってきたんだよ!
質問しても「はい」か「いいえ」や、知らないことを「知りません」ともまともに言えない奴とかいるからな。
発言まで制限させるから、ボキャブラリーが乏しい舌足らずな話し方を奴、日本人なのに日本語の会話もまともに出来ねえで人から何か言われるたびに躊躇ったり動揺する奴とかたまにいるよ。
意見を言う態度や発言が活発な奴は「生意気な奴」と悪くあしらって、控えめで大人しげな奴を「生真面目な奴」と買い被ってきたからな。
それが『タテ社会』が齎した結果なんだろうな。

5 ■Re:Re:無題
>デルフィニウムさん
「身内びいき」というものもタテ社会の問題点の一つですね。

6 ■無題
その場で組まされたようなグループなどでの議論を嫌う人が物凄く多い。
仲良しグループなら雑談半分に楽しくやるのに
それ以外だと全然意見を出さない人が多い。
『友達』にならないと話し合いができない。
話を聞こうともしない。

それは学校の教育方法に問題があると思う。
学習活動に中途半端に個人の友人関係を絡ませるから、
苦手な人とは表向きだけ合わせていればいいという
公の顔が育ってないんだと思う。
公の事柄に私的な事情が絡むということで
プライベートなことすら公に振り回されなければいけなくなり、本当は遊びたくないのに授業で孤立するから遊んだり、
新学期友達ができるかできないかに異様に怯えたり、
精神的にプレッシャーを与え悪循環しているのが今の教育。

狭い教室で「友達がいることは当たり前で優れている」と教育し、授業に私的事情を絡めれば絡めるほど 偽りの関係や不満が溜まり、いじめは増える。
友 達 な ど 、 気 が 向 か な け れ ば 作 ら な く て も い い 。
授業では元からタテマエ前提で色んな人と協力しあえるようにする公の教育をするべき。