2011-09-04 22:31:55
日本語的な「視点」を反映する表現②
テーマ:PTAと日本語の中に見られる「二人称性」
<「迷惑受身」とは?>
「わたし」の特別扱いは、「迷惑受身」と言われる構文にも認められる。
ちなみに、この「迷惑受身」も学校文法(国文法)では普通とりあげられないが日本語教育の場では必ず問題になる文法事項の一つである。
外国人学習者にとって、初級文法の中でもっとも難しい学習項目と言っても過言ではない。
迷惑受身と言われるのは、次のようなものである。
(1)財布 を すられてしまった。
(2)足 を 踏まれて痛かった。
(3)食べるのを楽しみにしていたケーキ を 弟に食べられてしまった。
迷惑受身の形式的な特徴としては、能動文における目的語(ヲ格)が受身文において主語(ガ格)にならず目的語(ヲ格)のままであることだ。
いっぽう、次の例のように、能動文における目的語が受身文において主語(ガ格)になるものは「中立受身」と言われる。
(4)このビル が 建てられたのは戦時中であった。
(5)野田佳彦氏 が 第95代総理大臣に任命された。
「中立受身」は客観的・中立的に事実を叙述するものであり、英語等における受身文と同質のものと言える。
上に述べたように、迷惑受身と中立受身を形式的に分かつのは、能動文における目的語が受身文の中で主語(ガ格)になるか(⇒中立受身)、目的語(ヲ格)のままであるか(⇒迷惑受身)である。
次の例のように、同じような内容を表している文でも、ガ格とヲ格のどちらが使われるかでその表す意味が大きく違ってくる。
(6)隣に三階建の家 が 建てられた。
(7)隣に三階建の家 を 建てられた。
中立受身である(6)例では「隣に三階建の家が建った」という事実だけが淡々と記述されているのに対して、(7)例では「隣に三階建の家が建った」という事実だけではなく、そのことを迷惑に思う心情も語られている。
<迷惑受身と日本語的視点>
さて、ここで注目したいのは、「迷惑受身」の表わす「迷惑」とは、迷惑一般ではなく、基本的に「わたし」にとっての迷惑であるということだ(例文(1),(2),(3),(7)参照)。
そのことを端的に示すのは、次のような対照だ。
ヲ格を伴う迷惑受身が用いられるのは「わたし」が被害者の立場に立った場合であって、「他者」が「被害」を受けた場合は客観的に事実を叙述する中立受身が用いられる、ということがある。
(8)「退職金をはたいて購った名画 を 盗まれてしまった。」
(9)「美術館の名画 が 盗まれたそうだ。」
(10)「貴重な戦力 を 引き抜かれてしまった。」
(11)「例の凶悪犯 が 逮捕されたそうだよ。」
(8)と(9)は同じく「名画が盗難に遭った」事実が述べられている。違うのは、(8)の方は話者本人が所有する「名画」であるのに対して、(9)の方は話者(つまり「わたし」)とは直接的なかかわりがないこと。その違いに応じて、(9)は中立受身が用いられ、(8)では迷惑受身が用いられていると考えられる。
(10)(11)の対比も同様に考えられる。(10)が迷惑受身になるのになぜ(11)は迷惑受身にならないのか? それは、凶悪犯本人にとっては「逮捕されること」は好ましくない「被害的な事実」であるが、話者(「わたし」)にとってはむしろ歓迎すべきことであるからだと考えられる。
このように、(8)と(9)、(10)と(11)を対照することで、迷惑受身が表わす「迷惑」・「被害」とは基本的に「わたし」にとってのそれであることがお分かりいただけると思う。
ここにおいても「わたし」の特別扱い、すなわち、自己密着的・自己中心的な「視点」が認められるわけである。
※受身と日本語的な「視点」とのかかわりについては森田良行氏がすでに言及しています。また、迷惑受身と被害者意識に注目して日本人の心のあり方を探る試みは、土居健郎氏が『「甘え」の構造』の中で行っています。
「わたし」の特別扱いは、「迷惑受身」と言われる構文にも認められる。
ちなみに、この「迷惑受身」も学校文法(国文法)では普通とりあげられないが日本語教育の場では必ず問題になる文法事項の一つである。
外国人学習者にとって、初級文法の中でもっとも難しい学習項目と言っても過言ではない。
迷惑受身と言われるのは、次のようなものである。
(1)財布 を すられてしまった。
(2)足 を 踏まれて痛かった。
(3)食べるのを楽しみにしていたケーキ を 弟に食べられてしまった。
迷惑受身の形式的な特徴としては、能動文における目的語(ヲ格)が受身文において主語(ガ格)にならず目的語(ヲ格)のままであることだ。
いっぽう、次の例のように、能動文における目的語が受身文において主語(ガ格)になるものは「中立受身」と言われる。
(4)このビル が 建てられたのは戦時中であった。
(5)野田佳彦氏 が 第95代総理大臣に任命された。
「中立受身」は客観的・中立的に事実を叙述するものであり、英語等における受身文と同質のものと言える。
上に述べたように、迷惑受身と中立受身を形式的に分かつのは、能動文における目的語が受身文の中で主語(ガ格)になるか(⇒中立受身)、目的語(ヲ格)のままであるか(⇒迷惑受身)である。
次の例のように、同じような内容を表している文でも、ガ格とヲ格のどちらが使われるかでその表す意味が大きく違ってくる。
(6)隣に三階建の家 が 建てられた。
(7)隣に三階建の家 を 建てられた。
中立受身である(6)例では「隣に三階建の家が建った」という事実だけが淡々と記述されているのに対して、(7)例では「隣に三階建の家が建った」という事実だけではなく、そのことを迷惑に思う心情も語られている。
<迷惑受身と日本語的視点>
さて、ここで注目したいのは、「迷惑受身」の表わす「迷惑」とは、迷惑一般ではなく、基本的に「わたし」にとっての迷惑であるということだ(例文(1),(2),(3),(7)参照)。
そのことを端的に示すのは、次のような対照だ。
ヲ格を伴う迷惑受身が用いられるのは「わたし」が被害者の立場に立った場合であって、「他者」が「被害」を受けた場合は客観的に事実を叙述する中立受身が用いられる、ということがある。
(8)「退職金をはたいて購った名画 を 盗まれてしまった。」
(9)「美術館の名画 が 盗まれたそうだ。」
(10)「貴重な戦力 を 引き抜かれてしまった。」
(11)「例の凶悪犯 が 逮捕されたそうだよ。」
(8)と(9)は同じく「名画が盗難に遭った」事実が述べられている。違うのは、(8)の方は話者本人が所有する「名画」であるのに対して、(9)の方は話者(つまり「わたし」)とは直接的なかかわりがないこと。その違いに応じて、(9)は中立受身が用いられ、(8)では迷惑受身が用いられていると考えられる。
(10)(11)の対比も同様に考えられる。(10)が迷惑受身になるのになぜ(11)は迷惑受身にならないのか? それは、凶悪犯本人にとっては「逮捕されること」は好ましくない「被害的な事実」であるが、話者(「わたし」)にとってはむしろ歓迎すべきことであるからだと考えられる。
このように、(8)と(9)、(10)と(11)を対照することで、迷惑受身が表わす「迷惑」・「被害」とは基本的に「わたし」にとってのそれであることがお分かりいただけると思う。
ここにおいても「わたし」の特別扱い、すなわち、自己密着的・自己中心的な「視点」が認められるわけである。
※受身と日本語的な「視点」とのかかわりについては森田良行氏がすでに言及しています。また、迷惑受身と被害者意識に注目して日本人の心のあり方を探る試みは、土居健郎氏が『「甘え」の構造』の中で行っています。