<184> #2

2011-07-29 23:32:21

小平手話サークル主催講演会と小平市手話通訳者養成講習会にて

テーマ:PTAと日本語の中に見られる「二人称性」
小平市の手話通訳者養成講座のひとつとして、7月26日(火)と7月28(木)の両日、日本語をテーマにした講演を行いました。

小平市の手話通訳養成講座は細かく習得度別に分けられているようですが、まずは、初級から中級レベルの受講生に向けてひとつ、それから、上級から通訳レベルの受講生に向けてひとつ、話をせよとのこと。
お題はどちらのクラスも「日本語を改めて考える」といった内容でとの依頼でした。

一回目と二回目の講演タイトルは同じものにしましたが、上級レベル以上の方が受講する二回目は、少し「その先の話」(後述)を入れてみました。


タイトルは、いずれも次のようなものにしました。

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日本語の構文的特徴から見えてくるもの
  ―「主体・客体」と「自分・相手」―

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内容は以下のようなもの。

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日本語の「文」の成り立ちを観察すると、主語と目的語が頻繁に省略されたり、自動詞構文や自発構文が好まれたりと、英語などの外国語と違って、「主語・目的語」、すなわち「主体・客体」という枠組みの存在感が薄い。

いっぽう、日本語においては、敬語や人称詞、授受表現、終助詞等の【自分と相手との関係性】を反映する表現が多々存在し、「文」成立の上で非常に重要な役割を果たしている。

このような日本語の「文」のあり方からは、事態を成り立たせている主体を析出し出来事を分析的にとらえようとする志向は弱く、いっぽうで「相手」との関係性には常に並々ならぬ関心を抱く日本人の心の傾向が垣間見られる。

こうして日本語の構文的特徴を押さえてみると、日本は典型的な「恥の文化」の国だとするルース・ベネディクトの主張は決して無根拠な発言と切り捨てることはできないし、日本人に対人恐怖症の患者が目立って多いとする木村敏氏等の指摘とも符合し興味深い。
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<「視点」の違いへの着目>
大きな話の流れとしては、これまでこのブログで語ってきたことや、先の日本語学会や日本世間学会で発表したことと重なるわけですが、自分なりには、世間学会で発表することで浮かび上がってきた問題、つまり、私が「二人称性」と呼んできたもののあいまいさを今回少しでも乗り越えられればな~というのが、大げさに言えば、今回の自らの「テーマ」でした。

この点に関して言えば、「相手」というタームをこれまでの「二人称」というタームの代わりに意識的に据えたこと、もうひとつは、二回目の講演の最後の部分で、「相手」の存在が非常に大きなものになる背景として、視点のありかの相違の問題に言及しました(これが先ほどの「その先の話」)。

視点のありかの相違というのは、日本語的な視点は生身の自分に密着的なものであるが、欧米語的な視点は(中国語なども含められる)、生身の自分から離れたところに存在し、生身の自分を言わば他人を見るのと同じように突き放して(対象化して)視ている、ということです。
そして、この視点の違いから、日本語の構文的特殊性が説明できるのではないかというお話もしました。

このような視点の違いをめぐる議論は、私の師の森田良行や、池上嘉彦氏が前々から提起されているものではありますが、やっと自分なりに腑に落ち、自分の議論の中で展開していけそうな気がしております。
(視点論の詳細と、先学の説と重ならないわたし独自の議論はどの部分なのかといったもう少し突っ込んだ話は近々に取り上げてみたいと思っています。)


<小平手話サークルとの接点>
ところで、小平手話サークルと私との接点には次のようなことがありました。

もう今から10年前から6年くらい前にかけてのことですが、所属する国際文化学科にろう者の学生(Mさん)が在籍しました。私は四年間Mさんの担任をしていました(名ばかりの担任でしたが…)。
その時に、一方ならぬお世話になったのが小平手話サークルの皆さんだったのです。他に、要約筆記のボランティアグループにもお世話になっていました。

担当する「日本語概説」や日本語教員養成課程の「日本語文法概論」にも入っていただき、サポートを受けていました。
そこでは、本ブログでも何度か話題にしている水谷信子氏の『日英比較 話しことばの文法』などをテキストに、「あげる」と「くれる」の違い、「~てくれる」「~てもらう」という表現の意味、それらと主語や目的語の省略との関係などについて取り上げていました。

そうした中で、通訳者の中で中心的な役割を果たしている三沢さんや美馬さんから、授業でとりあげられている日本語の話は、手話通訳者としても勉強になると言われうれしく思っておりました。
Mさん卒業後は特にご縁もなかったのですが、昨年の5月頃ご連絡があり、夏休みに、手話通訳者の養成講座で日本語について話をしてくれないかとのお話がありました。
ちょうどそのころ、本ブログで日本語についてつらつら述べてきたこともまとまりつつあったときなので、二つ返事でお受けをしたのでした。
そして引き続き、今年度もお話があったというわけです。


<日本語の特質と手話通訳との関連>
私のほうから一通りお話をした後、三沢さんから日本語についての話を依頼した背景について受講生に向けて説明がありました。

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手話通訳をきちんとするためには自分たちが普段使っている健常者の日本語について客観的に理解しておく必要があると思う。

たとえば、今日の講演の中にも出てきた、主語と目的語が日本語ではどんどん省略されるということに自覚的でないと、「主体」のはっきりしない手話を使ってしまってろう者を混乱させたり、逆に「主体」を常にはっきりと表現する傾向のある手話を安易に日本語に通訳すると、拙い言語をろう者が使っているように健常者に誤解させてしまったりということが起こる。

手話通訳者になろうとしている皆さんが自分の使っている日本語に対してより自覚的になるきっかけになればと思い、このような企画を考えた。(要約)
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こうしてきちんと私の日本語の話と手話通訳との関連を位置付けていただき、とてもありがたかったです。


手話と比較することでさらに見えてくる、日本語の特質、健常者の言語の性質を探ることが今後の課題となりそうです。





1 ■お疲れ様でした
素晴らしいお仕事をなさっていらっしゃいますね!
手話は、主体がはっきりしているのですね。
そして、いつも主体がはっきりしている日本語を使うと、拙い日本語を使うと思われてしまう…という点には、ハッとさせられました。

通訳といえば、主体のハッキリしている英語と、主語・目的語がしばしば省略される日本語の通訳の苦労が語られている本を思い出しました。
とまてさんが、いつかどこかで紹介なさっていた『なんで英語やるの?』中津 燎子:著です。
スリリングな感想を抱きました。

2 ■Re:お疲れ様でした
>猫紫紺さん
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手話は、主体がはっきりしているのですね。
そして、いつも主体がはっきりしている日本語を使うと、拙い日本語を使うと思われてしまう…という点には、ハッとさせられました。
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「(あなた)食べる?」という内容を手話にする時に、主体が相手であることを示さないで通訳しようとすると、「(わたし)食べようかな?」という意味だと思われてしまったりするそうです!
引用部後段のお話ですが、私もハッとさせられました。
ご注目いただけ、うれしいです。

『なんで英語やるの?』
私もとまてさんに紹介してもらって読みました。
英語では、対象の姿を明確に描き出そうとする基本的な姿勢が発音にも現れているという部分が特に興味深かったです。