<86> #2

2009-12-25 23:45:31

関係性の中の「わたし」 ②終助詞(その2)

テーマ:エビデンスとしての日本語
職場の同僚に、英語と日本語のバイリンガルで、書くのも話すのも英語のほうが楽という日本人女性がいる。その人は同じバイリンガルの友人と話すときは英語で話すそうなのだが、その会話の中には終助詞の「ね」がしばしば出てくると言う。

(1)This is delicious, ね .

といった具合のようだ。
「ね」によって表わされる気分は英語では表現しにくいということだろうか。

本エントリは、言語学、英語学畑の研究者による対照言語学的な見地からの「ね」とその周辺をめぐる知見について見ていきたいと思う。


<付加疑問と「ね」>
「ね」と似た働きを持つ英語の表現としては、付加疑問があげられる。

(2)「今日はいい天気ですね。」

に対応する英語として、

(2’)“It’s a fine day, isn’t it? ”

をあげることができよう。
しかし、その場合の付加疑問はなくても自然な文になりうる。そこが「ね」と違うところである。
「なわ張り理論」における②のケース(:話し手、聞き手双方にとって「内」の情報)において、「ね」は必須の要素であるが、付加疑問は任意の要素である。

また、付加疑問はあくまでも「疑問を呈する」ものであって、ストレートに相手をほめるような場合には使いがたい点も、「ね」との違いとして重要である。
相手が作ってくれた料理に対して、

(3)「これ、ほんとにおいしいですね!」

とは言えるが、

(3’)“This is very delicious, isn’t it? ”

とは言いがたい。
付加疑問が使われるのは、“苦手だと言っていた【けど】、おいしいではないか?”とか、店で出てきた料理が、“そっけない外見の【割には】おいしいではないか”といった状況においてである。
(付加疑問についての如上の理解は、例文ともに滝浦(2008)に負っています。)

付加疑問を用いるには「逆の可能性を示唆する状況」が必要となると言ってよさそうだが、「ね」の使用にはそのような条件はないと言っていいだろう。「対立・葛藤」を前提とする付加疑問に対して、「一致・融合」を前提とする「ね」という対比が成り立つのではないか。


<you knowと「ね」>
神尾(1990)は、you knowと「ねの類似点として次の四つを指摘する。
① どちらも話し手と聞き手の間に一種の仲間意識を生み出す働きがある。
② どちらも話し手が聞き手の理解を確認しようとしていることを示唆する。
③ どちらもくだけた会話において用いられる。
④ どちらも文頭、文中、文末の様々な位置に生じ得る。

しかしながら、いっぽうで、「両者の間には決定的な相違点もある」とし、「you knowは英語におけるなわ張り関係の表現には何ら重要な役割を果たさないが、『ね』はきわめて重要な役割を演ずる。」と述べている。
表現の成立の上で、「ね」とは違い、you knowは必須の要素ではないわけである。

「ね」とyou knowとの重なりに注目しつつ、異なりについて興味深い指摘をしているのは柳父章(1993)である。
柳父は、「ね」をはじめとする終助詞や接続助詞の言いさし的用法(「~ですけど…。」)は価値の低い言語習慣とは思われていないが、you knowは違うと言う。
氏は、you knowに対するスイスの言語学者ワッツ(R.J. Watts)による「お互いに言い合うことでsense of “we-ness”(われわれ意識R.J.)を高める。それは労働者階級におきまりの言葉遣いである」といった指摘や、欧米の言語学者がyou knowをはじめとする談話標識の資料を収集するときには、とくに労働者階級を対象にとりあげる場合がかなりあるといった観察に基づき、you knowは「教養ある中流階級以上の人々がこれを蔑視し、嫌っている」としている。
そして、このふたつの表現についてのスタンスの異なりは、土居健郎が指摘する、「甘え」を抑圧せず社会的に認知する日本と、甘えは悪いこととされ抑圧される西欧という図式の一環として理解されるべきことを示唆している。(参照『「甘え」の構造』p.219)


<終助詞の必須性とバリエーション>

(4)「It’s raining.」

これは、この言い切りの形で自然な「文」として十分に成り立つ。
そこに何も足す必要はない。
それに対して、日本語の

(4')「雨が降っている。」

は、どうだろうか?
独り言であるならば、この言い切りの形で自然な「文」として成り立つだろうが、相手に向っての発言としては、これまでに見てきた例と同様、不自然だろう。

池上(1989)は、相手に向っての自然な発言としては、「話し手と聞き手の間の微妙な対人的な関わり」に応じて、
「雨が降っている」「雨が降っている」「雨が降っている」「雨が降っている」「雨が降っている」「雨が降っている」「雨が降っている」「雨が降っているよね」「雨が降っているわよ」「雨が降っているわね」「雨が降っているわよね
など、「たいてい何らかの終助詞のついた発話になる」とする。
(ちなみに、↑赤き血のイレブンです(汗))
そして、「これらの助詞は雨が降っているという事実との関連で、話し手がそれをどのような気持ちで受け取っているかを表示したり(その際、聞き手がそれをどう受け取るかということへの配慮もたいてい含まれているものである)、あるいは、聞き手もすでに気づいてるか、いないか、そして、気づいているなら共感を求め、気づいていないなら、注意を喚起するといったふうに話し手の側からの直接の働きかけの気持ちを表示したりする。」と指摘している。

自然な「文」の成立のためには「対人的な関わり」を表わす終助詞の付加が必須的であり、しかも、その相手との関わりの微妙な違いに応じて種々様々なバリエーションを持つ日本語。
「ね」をはじめとする終助詞の存在と振る舞いは、日本人が相手との関係性の中にどっぷりと浸かってあることを教えてくれているように思われる。

※この項、思いのほか、まとめるのに骨が折れました。少しずつ、修正・発展させていきたいと思っています。


参照文献
池上嘉彦(1989)「日本語のテクストとコミュニケーション」『日本文法小事典』(井上和子編、大修館)
滝浦真人(2008)『ボライトネス入門』研究社
柳父章(1993)「日本語の表現構造とその世界化の可能性と限界」『日本型モデルとは何か』(濱口惠俊編、新曜社)




1 ■無題
だんだん本業(日本語研究)のほうも
盛り上がってきましたね…^^

私(♀)は、
男言葉と女言葉の使い分けとかにも
興味があるので、いつか取り上げてほしいです。

どうぞよろしくお願いします。 m(_"_)m



( ↓ 拙ブログにもリンクしました。)  

2 ■言葉の性差
>里山たぬ子さん
言葉の性差は、日本語の大きな特徴と言えるものです。そして、PTA問題やベルマーク問題とも深くかかわる問題でもあると思います。

韓国語は、SOV語順で助詞を持ち、体系的な敬語が存在し、三系列の指示体系を持つこと等、日本語と多くの点で共通点を持つ言語ですが、日本語のような男ことば・女ことばは持たないようなのです。
男ことばと女ことばを持つのは、確か、世界的にとっても珍しい現象のはずです。

いずれ近いうちにとりあげたいと思いますので、またツッコミよろしく!