2009-12-21 19:51:13
関係性の中の「わたし」 ②終助詞(その1)
テーマ:エビデンスとしての日本語
まずは、次の夫婦の会話をご覧いただきたい。
(1)
妻「冬ももう終わりね」
夫「ああ、もうすぐ春だ」
妻「思い出すわね、新緑のあの教会。私たち、そろそろ銀婚式ね」
夫「そうだ。今年の5月だ」
妻「子どもたちもいつの間にか大人になっちゃったわね」
夫「太郎も春から会社員だ」
妻「どこか、記念に海外旅行でも行きたいわね」
夫「ああ、そうだ。どうせなら外国がいい」
(守屋(2003)より)
だれもが感じることだと思うが、夫の発言は変である。
そのおかしさの原因は、夫の発言には終助詞の「ね」が使われていないことにある。
上の夫の発言に「ね」を付け加えた会話を見てみよう。
(1’)
妻「冬ももう終わりね」
夫「ああ、もうすぐ春だね」
妻「思い出すわね、新緑のあの教会。私たち、そろそろ銀婚式ね」
夫「そうだね。今年の5月だね」
妻「子どもたちもいつの間にか大人になっちゃったわね」
夫「太郎も春から会社員だね」
妻「どこか、記念に海外旅行でも行きたいわね」
夫「ああ、そうだね。どうせなら外国がいいね」
(なお、男性の場合、「ね」以外に「な」も使われる。)
最初の例に感じられた、つっけんどんな感じはなくなり、ふつうの夫婦の会話になる。
「あげる」と「くれる」の使い分けと同様、ふだん意識されることはほとんどないと思われるが、日本人は会話の中で「ね」を多用しており、「ね」なしで会話を進めることは不可能だと思われる。
(2)
「いやあ、納得できませんね。」
「そうですね。もういい加減にしてほしいですね。」
(3)
「寒いですね。」
「そうですね。明日も寒いようですね。」
「ほんとに、こう寒い日が続くとまいっちゃいますね。」
(4)
「あ、髪、切ったんですか。よく似合いますね。」
これらの例から「ね」を抜くと、次のようになる。
(2’)
??「いやあ、納得できません×。」
「そうです×。もういい加減にしてほしいです×。」
(3’)
??「寒いです×。」
「そうです×。明日も寒いようです×。」
「ほんとに、こう寒い日が続くとまいっちゃいます×。」
(4’)
??「あ、髪、切ったんですか。よく似合います×。」
このような「ね」抜きの発言を見ると、なにか相手のことなどお構いなしに話しているように聞こえる。
日本語において、自然な会話、自然な「文」の成立に「ね」がいかに重要な役割を果たしているかがわかると思う。
もっとも、そうかと言って、守屋(2003)も指摘するように、なんでもかんでも「ね」を付ければ自然な日本語になるわけではない。
次の例は「ね」があることで、不自然な日本語になってしまっている。
(5)??
「初めまして。私はアメリカから来ましたね。いま東京で英語を教えていますね」(守屋(2003))
では、「ね」が必要とされる場合とは、どのような場合なのだろうか。
この問題を考える上で参考になるのが神尾昭雄氏の「情報のなわ張り理論」だ(神尾(1989),(1990)(2002))。神尾は、情報が話し手、聞き手のいずれのなわ張りに属すかという観点から次の四つの場合に分ける。
① 話し手の心身の状態や個人的事実などの、話し手の「内」にあるが、聞き手にとっては「外」の情報
例:
(6)「(私は)ちょっと寒いです。」
(7)「私はA型です。」
② その日の天気などの、話し手、聞き手双方にとって「内」の情報
例:
(8)「(今日は)寒いですね。」
(9)(相手の歌を聞いて)「お上手ですね。」
③ 聞き手の心身の状態や個人的事実などの、聞き手の「内」にあって、話し手にとっては「外」の情報。
例:
(10)「おつらそうですね。医者を呼びましょうか。」
(11)「お父様、退院されたそうですね。」
④ 話し手、聞き手双方にとって「外」の情報
例:
(12)「課長、たった今入ってきた話では、例の件は再検討することになったみたいです。」
神尾は、それぞれの場合に対応する日本語の「文形」を、①「直接形」、②「直接ね形」、③「間接ね形」、④「間接形」になるとしている。①「直接形」とは「~だ」、「~する」、「~した」のように、「通常の平叙文と同様の下降調言い切り型の抑揚を持つもの」。②「間接形」とは、「らしい」「ようだ」「そうだ」「って」「みたいだ」などの文末形のこと。③、④の「直接ね形」「間接ね形」とは、「直接形」「間接形」に「ね」の付け加わった形である。「ね」は「ねえ」「な」「なあ」などの形をとることもある。
ここで、「ね」の問題に戻ると、日本語においては、②と③の場合、つまり、聞き手にとって「内」の情報に言及する場合、「ね」が付加される必要があるということが分かる。神尾は、②と③の場合、「ね」の付加は任意ではなく、義務的であると指摘している。確かに、②と③の状況で「ね」を抜くと不自然な日本語になってしまう。
(8’)??「(今日は)寒いです×。」
(9’)??(相手の歌を聞いて)「お上手です×。」
(10')??「おつらそうです×。医者を呼びましょうか。」
(11’)??「お父様、退院されたそうです×。」
(もちろん、「??」の判定は②③の状況での発言ならという前提でのもの。)
ちなみに、先に見た例文の(1)~(4)は、いずれも②の例と考えられる。
一方、神尾によれば、英語では、「直接形」と「間接形」のみがあり、「直接ね形」、「間接ね形」に相当するものはない。
つまり、英語では、自らの「内」にある確かな情報は「直接形」により表現され、自らの「内」にない不確かな情報、つまり「外」の情報は「間接形」によって表わされるということである。
日本語の四本立てに対して、英語は二本立てである。
会話を進めるにあたり、英語では、自らの発する情報が相手の「内」にあるか否かは考慮されない(正確には、その度合が低い)わけである。
そのような英語に対して、日本語では、自分にとって確かなことでも相手にとっても確かなことについては直接形は用いず「ね」を付加した形(「直接ね形」)を用いる、というように、自分と表現対象のみならずそこに「相手のありかた」が関与してくるわけである。
日本語では、自らが述べようとすることが相手にとって「内」の情報か否か、すなわち、相手は自分と同じ考えを持っているのかどうかや、相手はこれから自分が言うことに関して知っているのか否かなどについて常に思いをはせながら話を進めていることになる。
日本人が会話を進めるに際しては、自分の考えをただそのものとして提示するのではなく、いかに相手との「関係性」に気を配りながら話しているかが理解される。
参照文献
大曽美恵子(1986)「誤用分析1『今日はいい天気ですね。』―『はい、そうです。』」『日本語学』5巻9号
神尾昭雄(1989)「情報のなわ張りの理論と日本語の特徴」『日本文法小事典』大修館
神尾昭雄(1990)『情報のなわ張り理論 言語の機能的分析』大修館
神尾昭雄(2002)『続・情報のなわ張り理論 言語の機能的分析』大修館
守屋三千代他(2003)『日本語運用文法』凡人社
(1)
妻「冬ももう終わりね」
夫「ああ、もうすぐ春だ」
妻「思い出すわね、新緑のあの教会。私たち、そろそろ銀婚式ね」
夫「そうだ。今年の5月だ」
妻「子どもたちもいつの間にか大人になっちゃったわね」
夫「太郎も春から会社員だ」
妻「どこか、記念に海外旅行でも行きたいわね」
夫「ああ、そうだ。どうせなら外国がいい」
(守屋(2003)より)
だれもが感じることだと思うが、夫の発言は変である。
そのおかしさの原因は、夫の発言には終助詞の「ね」が使われていないことにある。
上の夫の発言に「ね」を付け加えた会話を見てみよう。
(1’)
妻「冬ももう終わりね」
夫「ああ、もうすぐ春だね」
妻「思い出すわね、新緑のあの教会。私たち、そろそろ銀婚式ね」
夫「そうだね。今年の5月だね」
妻「子どもたちもいつの間にか大人になっちゃったわね」
夫「太郎も春から会社員だね」
妻「どこか、記念に海外旅行でも行きたいわね」
夫「ああ、そうだね。どうせなら外国がいいね」
(なお、男性の場合、「ね」以外に「な」も使われる。)
最初の例に感じられた、つっけんどんな感じはなくなり、ふつうの夫婦の会話になる。
「あげる」と「くれる」の使い分けと同様、ふだん意識されることはほとんどないと思われるが、日本人は会話の中で「ね」を多用しており、「ね」なしで会話を進めることは不可能だと思われる。
(2)
「いやあ、納得できませんね。」
「そうですね。もういい加減にしてほしいですね。」
(3)
「寒いですね。」
「そうですね。明日も寒いようですね。」
「ほんとに、こう寒い日が続くとまいっちゃいますね。」
(4)
「あ、髪、切ったんですか。よく似合いますね。」
これらの例から「ね」を抜くと、次のようになる。
(2’)
??「いやあ、納得できません×。」
「そうです×。もういい加減にしてほしいです×。」
(3’)
??「寒いです×。」
「そうです×。明日も寒いようです×。」
「ほんとに、こう寒い日が続くとまいっちゃいます×。」
(4’)
??「あ、髪、切ったんですか。よく似合います×。」
このような「ね」抜きの発言を見ると、なにか相手のことなどお構いなしに話しているように聞こえる。
日本語において、自然な会話、自然な「文」の成立に「ね」がいかに重要な役割を果たしているかがわかると思う。
もっとも、そうかと言って、守屋(2003)も指摘するように、なんでもかんでも「ね」を付ければ自然な日本語になるわけではない。
次の例は「ね」があることで、不自然な日本語になってしまっている。
(5)??
「初めまして。私はアメリカから来ましたね。いま東京で英語を教えていますね」(守屋(2003))
では、「ね」が必要とされる場合とは、どのような場合なのだろうか。
この問題を考える上で参考になるのが神尾昭雄氏の「情報のなわ張り理論」だ(神尾(1989),(1990)(2002))。神尾は、情報が話し手、聞き手のいずれのなわ張りに属すかという観点から次の四つの場合に分ける。
① 話し手の心身の状態や個人的事実などの、話し手の「内」にあるが、聞き手にとっては「外」の情報
例:
(6)「(私は)ちょっと寒いです。」
(7)「私はA型です。」
② その日の天気などの、話し手、聞き手双方にとって「内」の情報
例:
(8)「(今日は)寒いですね。」
(9)(相手の歌を聞いて)「お上手ですね。」
③ 聞き手の心身の状態や個人的事実などの、聞き手の「内」にあって、話し手にとっては「外」の情報。
例:
(10)「おつらそうですね。医者を呼びましょうか。」
(11)「お父様、退院されたそうですね。」
④ 話し手、聞き手双方にとって「外」の情報
例:
(12)「課長、たった今入ってきた話では、例の件は再検討することになったみたいです。」
神尾は、それぞれの場合に対応する日本語の「文形」を、①「直接形」、②「直接ね形」、③「間接ね形」、④「間接形」になるとしている。①「直接形」とは「~だ」、「~する」、「~した」のように、「通常の平叙文と同様の下降調言い切り型の抑揚を持つもの」。②「間接形」とは、「らしい」「ようだ」「そうだ」「って」「みたいだ」などの文末形のこと。③、④の「直接ね形」「間接ね形」とは、「直接形」「間接形」に「ね」の付け加わった形である。「ね」は「ねえ」「な」「なあ」などの形をとることもある。
ここで、「ね」の問題に戻ると、日本語においては、②と③の場合、つまり、聞き手にとって「内」の情報に言及する場合、「ね」が付加される必要があるということが分かる。神尾は、②と③の場合、「ね」の付加は任意ではなく、義務的であると指摘している。確かに、②と③の状況で「ね」を抜くと不自然な日本語になってしまう。
(8’)??「(今日は)寒いです×。」
(9’)??(相手の歌を聞いて)「お上手です×。」
(10')??「おつらそうです×。医者を呼びましょうか。」
(11’)??「お父様、退院されたそうです×。」
(もちろん、「??」の判定は②③の状況での発言ならという前提でのもの。)
ちなみに、先に見た例文の(1)~(4)は、いずれも②の例と考えられる。
一方、神尾によれば、英語では、「直接形」と「間接形」のみがあり、「直接ね形」、「間接ね形」に相当するものはない。
つまり、英語では、自らの「内」にある確かな情報は「直接形」により表現され、自らの「内」にない不確かな情報、つまり「外」の情報は「間接形」によって表わされるということである。
日本語の四本立てに対して、英語は二本立てである。
会話を進めるにあたり、英語では、自らの発する情報が相手の「内」にあるか否かは考慮されない(正確には、その度合が低い)わけである。
そのような英語に対して、日本語では、自分にとって確かなことでも相手にとっても確かなことについては直接形は用いず「ね」を付加した形(「直接ね形」)を用いる、というように、自分と表現対象のみならずそこに「相手のありかた」が関与してくるわけである。
日本語では、自らが述べようとすることが相手にとって「内」の情報か否か、すなわち、相手は自分と同じ考えを持っているのかどうかや、相手はこれから自分が言うことに関して知っているのか否かなどについて常に思いをはせながら話を進めていることになる。
日本人が会話を進めるに際しては、自分の考えをただそのものとして提示するのではなく、いかに相手との「関係性」に気を配りながら話しているかが理解される。
参照文献
大曽美恵子(1986)「誤用分析1『今日はいい天気ですね。』―『はい、そうです。』」『日本語学』5巻9号
神尾昭雄(1989)「情報のなわ張りの理論と日本語の特徴」『日本文法小事典』大修館
神尾昭雄(1990)『情報のなわ張り理論 言語の機能的分析』大修館
神尾昭雄(2002)『続・情報のなわ張り理論 言語の機能的分析』大修館
守屋三千代他(2003)『日本語運用文法』凡人社
2 ■Re:日本特有の・・・?
>猫紫紺さん
コメント、ありがとうございます!
相手との関係性に気をくばり、「同調性」が重んじられる日本的なスタイルにはよい面もあると思いますが、いっぽうで、主体性と普遍的なロジックを軽視してしまうというマイナス面を持つように思います。
そこではどうしても「みんな」(=仲間うちの多数派)・集団の意向が重んじられ、少数派・個人の意向は無視されがちになる。
ロジック(法)に照らせばPTAに入らないことには、また役職を引き受けないことには何の問題もないはずなのに、この国では、「あの人は勝手だ、ずるい人だ。」とされてしまいます。
森有正は、日本では仲間うちの二人称的な関係が肥大化し、一人称と三人称が脆弱であると指摘しています(『経験と思想』他)。
>PTAで活発な議論が起こりにくいのは、日本語の特質と、女性心理と、集団心理がからんでくるのでしょうか。そこのところ、知りたいです。
そこのところに少しでも迫ることができればと思っています。
応援、ご助言、よろしくであります!
コメント、ありがとうございます!
相手との関係性に気をくばり、「同調性」が重んじられる日本的なスタイルにはよい面もあると思いますが、いっぽうで、主体性と普遍的なロジックを軽視してしまうというマイナス面を持つように思います。
そこではどうしても「みんな」(=仲間うちの多数派)・集団の意向が重んじられ、少数派・個人の意向は無視されがちになる。
ロジック(法)に照らせばPTAに入らないことには、また役職を引き受けないことには何の問題もないはずなのに、この国では、「あの人は勝手だ、ずるい人だ。」とされてしまいます。
森有正は、日本では仲間うちの二人称的な関係が肥大化し、一人称と三人称が脆弱であると指摘しています(『経験と思想』他)。
>PTAで活発な議論が起こりにくいのは、日本語の特質と、女性心理と、集団心理がからんでくるのでしょうか。そこのところ、知りたいです。
そこのところに少しでも迫ることができればと思っています。
応援、ご助言、よろしくであります!
3 ■Re:Re:日本特有の・・・?
>まるおさん
丁寧にレスをいただき、ありがとうございます!
>主体性と普遍的なロジックを軽視してしまうというマイナス面を持つように思います
ああ・・・おっしゃるとおりですね。なんだかスッと腑に落ちました。
>日本語の四本立てに対して、英語は二本立てである。
ロジカルで話しの長い女性と遭遇して、彼女は英語の二本立てのように日本語をつかう癖があり、「失礼な!その言葉チガウダロ!」と思った経験があります。(わたしがそう感じたのには背景がありますが、説明はこの場ではできません。)
ですが、みなが二本立て関係性の言葉を使うようになれば、あるいは日本も変わるかも・・なんて妄想してしまいます。だって、二本立て関係性は、個人個人が立っていて、相手との関係に気遣うことなく「平等に」コミュニケーションできそうな気がしますもの。
全然話しはかわりますが、「バカヤロー」などの本音がかわいく言えて、なおかつ後腐れを残さない女になりたいです(笑)
丁寧にレスをいただき、ありがとうございます!
>主体性と普遍的なロジックを軽視してしまうというマイナス面を持つように思います
ああ・・・おっしゃるとおりですね。なんだかスッと腑に落ちました。
>日本語の四本立てに対して、英語は二本立てである。
ロジカルで話しの長い女性と遭遇して、彼女は英語の二本立てのように日本語をつかう癖があり、「失礼な!その言葉チガウダロ!」と思った経験があります。(わたしがそう感じたのには背景がありますが、説明はこの場ではできません。)
ですが、みなが二本立て関係性の言葉を使うようになれば、あるいは日本も変わるかも・・なんて妄想してしまいます。だって、二本立て関係性は、個人個人が立っていて、相手との関係に気遣うことなく「平等に」コミュニケーションできそうな気がしますもの。
全然話しはかわりますが、「バカヤロー」などの本音がかわいく言えて、なおかつ後腐れを残さない女になりたいです(笑)
猫紫紺 2009-12-24 23:05:16 >>このコメントに返信
4 ■「ね」付きがデフォルトの日本語って
>猫紫紺さん
>だって、二本立て関係性は、個人個人が立っていて、相手との関係に気遣うことなく「平等に」コミュニケーションできそうな気がしますもの。
「ね」の基本的な意味は、「あなたが思っているのと同じようにわたしもこう思う」と示すことにあると言っていいように思います。
とすると、「ね」付きで何かが語られた場合、そこで語られることは自立的な「わたし」の考えではなく、「わたしたち」の考えということになります。そこにはあらかじめ相手の考え方が織り込まれている。
ということは、目上の人から、「ね」付きで何かを語られた場合、それは、自分もそう思っているはずのものとして語られているわけですから、異議を唱えにくくなりますし、いっぽう、相手に何かを語る時は、相手が同意してくれるようなことしか語りにくくなる。
(↑は、目下の人間の視点から語りましたが、目上の立場に立つと、たいして根拠のないことでも相手に受け入れられることを前提に語れてしまうという「便利」な側面も持っていると思われます。)
「ね」付き文がデフォルトとも言える日本語は、それぞれの「個」を大切に、「真理」を志向しつつ率直に語り合うことが難しい言語であると言えるかもしれません。
「バカヤロー」の話、「ね」の話ととってもつながっているような気がします。
示唆と刺激に富むコメント、ありがとうございます。
>だって、二本立て関係性は、個人個人が立っていて、相手との関係に気遣うことなく「平等に」コミュニケーションできそうな気がしますもの。
「ね」の基本的な意味は、「あなたが思っているのと同じようにわたしもこう思う」と示すことにあると言っていいように思います。
とすると、「ね」付きで何かが語られた場合、そこで語られることは自立的な「わたし」の考えではなく、「わたしたち」の考えということになります。そこにはあらかじめ相手の考え方が織り込まれている。
ということは、目上の人から、「ね」付きで何かを語られた場合、それは、自分もそう思っているはずのものとして語られているわけですから、異議を唱えにくくなりますし、いっぽう、相手に何かを語る時は、相手が同意してくれるようなことしか語りにくくなる。
(↑は、目下の人間の視点から語りましたが、目上の立場に立つと、たいして根拠のないことでも相手に受け入れられることを前提に語れてしまうという「便利」な側面も持っていると思われます。)
「ね」付き文がデフォルトとも言える日本語は、それぞれの「個」を大切に、「真理」を志向しつつ率直に語り合うことが難しい言語であると言えるかもしれません。
「バカヤロー」の話、「ね」の話ととってもつながっているような気がします。
示唆と刺激に富むコメント、ありがとうございます。
日本人のコミュニケーションには「相手を察する」とか「相手を慮る」要素がある、と聞いたことがあります。それは「もう一つの日本の文化」だと言う方もいらっしゃいます。
そのヒミツは、「ね」の使い方にあったのですね!!
「情報なわばり理論」は、とてもわかりやすく、参考になります。ご紹介ありがとうございます。
その上で、背景に思いをはせてみます。日本の文化として残していきたい、と一部で指摘されている「絆」や「和」。いずれも英語には翻訳しづらいもののようです。
個室・ドア文化になって廃れて来たそうですが、昔の日本の住宅事情は、和室で、引き戸(障子やふすま)、しかも長屋だったりすると、お隣の物音は筒抜け・・・「聞こえていても聞こえないことにする」マナーがあったそうです(いまもそういうこと、あるのかしら)。ですから相手の事情がなんとなくわかっているもの同士でコミュニケーションを取る、相手を慮りながら、自然に空気を読みながら言葉を使ってきた文化があったのではないでしょうか。ともすると、主語は抜かしても会話が成り立っていたりして。
前項の敬語もそうですが、相手との「関係性」に気を配りながらコミュニケーションを取る・・・日本人の感性は繊細だといわれるゆえんのひとつが、ありそうな気がします。
そう!女性同士で話していると、相手との「同調性」が重視されるな、異論はいいづらいな、とよく感じます。英語は議論に向いた言語、とも聞いたことがありまして、PTAで活発な議論が起こりにくいのは、日本語の特質と、女性心理と、集団心理がからんでくるのでしょうか。そこのところ、知りたいです。
話しが整理されていなくて、申し訳ありません。