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2010-03-07 23:11:25

関係性の中の「わたし」⑥ 敬語(その1)

テーマ:エビデンスとしての日本語
<ニュートラルな表現の不在>
This is a pen.

この表現は、相手がだれであれ使うことができる。王様であれ、初対面の人であれ、家族であれ。
つまり、具体的な関係性を超越する形で、一人の人間が一人の人間に語るというスタイルになっている。

ところが、日本語では、「This is a pen.」に相当する「どんな相手にも使える」表現はない。

日本語では、相手が王様の場合なら、

「これはペンでございます。」

初対面の相手なら、

「これはペンです。」

そして、家族なら

「これはペンだよ。」

となる。

よほど特殊な状況でもない限り、王様や初対面の相手などに

「これはペンだよ。」

とは言えないし、逆に、家族、特に連れあいや子ども等の同等か目下の家族に対して、

「これはペンです。」

と言うことはないだろう。

考えてほしい。
通常の関係にある子どもや連れあいに向かって「です・ます体」を使って会話する自分を想像できるだろうか。(関係がこじれた場合には「です・ます体」になることがあろうが。)
気の張るお客様や上司に対して「だ体」(タメ口)を使うことができるだろうか。

日本語においては、言葉を発する(文を作る)その度ごとに、「だ体」にするか、「です・ます体」にするか、「でございます体」にするかの選択を迫られるわけである。
そして、その選択をするに際して話者が考慮するのが「相手との関係性」である。


<上下関係・親疎関係>
文体を選択するにあたって考慮しなくてはならない「相手との関係性」には、「上下関係」と「親疎関係」の二つのものがある。

初対面の相手には「です・ます体」を使うが親しくなるにしたがい「だ体」になるというのは、「親疎関係」を反映するケースだ。夫婦げんかをしたり、さらに関係がこじれて離婚したときに「です・ます体」になるのは、「親」から「疎」への関係性の変化を反映したものと言える。
いっぽう、(ある程度親しくなっても)上司や先輩等の目上の人には「です・ます体」、「でございます体」を使うというのは、「上下関係」が反映されるケース。

ここで留意したいのは、相手との関係性を考慮しないモードが一方にあり、いっぽうで考慮するモードがあるというのではなく、日本語を使って通常の会話をする限り、「だ」か「です」か「でございます」かの選択を常に迫られるということ。
「とりあえずこれを使っておけばだれとでも話せる」といった「ど真ん中の表現」はない。

つまり、日本語を使って会話をする限り、その発言者は常に「相手との関係性」(相手は自分と「親」か「疎」か・相手は自分の「上」か「下」か「同等」か)を意識することになるのだ。

森有正は、このあたりの事情を次のように述べている。

***
敬語法(貶語法も含む)が日本語全体のノーマルな性格であり、敬語法を離れた言い方はむしろ例外的なのである。(『経験と思想』p.126)
***

付記
上では、いわゆる「敬語」のうち、丁寧語のみをとりあげ、尊敬語と謙譲語には触れていない。
これらも含めて表現の選択について一言しておく。

まず、もっともシンプルなゼロ敬語表現は、次の例のように丁寧語も尊敬語も謙譲語もない形。
「明日、行く?」

次に少し丁寧なのが丁寧語のみを付加したもの。
「明日、行きますか?」

より丁寧なのが、そこに尊敬語や謙譲語が加わったもの。
「明日、いらっしゃいますか?」

なお、丁寧語とは「聞き手」に対する敬意を表すものであり(対者敬語)、いっぽう、尊敬語と謙譲語は話の中の登場人物(行為者(主語)と被影響者(目的語))に対する敬意を表すもの(素材敬語)。

謙譲語の例を一つあげておく。

「きのう部長の家をお訪ねした。」

この「お~する」が謙譲語であるが、「訪ねる」という行為の被影響者である「部長」に対する敬意が表されている。


参考文献
森有正(1977)『経験と思想』岩波書店
伊丹十三(1986)「解説」(山下秀雄『日本のことばとこころ』講談社学術文庫