<159> #6

2010-11-25 21:45:15

文法的観点から見た「主体」に対する意識の希薄さ ― PTA問題の底流にあるもの(1)

テーマ:エビデンスとしての日本語
<はじめに>
PTA問題を通して見えてくるのは、この国における「個人」の存在の“軽さ”だ。

意思を確認されることなくPTA会員にされ、役職を無理強いされる。
全国いたるところの学校で繰り広げられている姿だ。

法的な裏付けなどないにもかかわらず、個人の自由がやすやすと奪われる。
個人の意思、個人の尊厳がきわめて軽く扱われていると言わざるをえない。

今回のエントリの主テーマは、<文法的観点から見た「主体」に対する意識の希薄さ>というものだが、この問題を考えることで、日本における「個人」の扱われ様が、実は相当に根の深い問題ではないのかと思いを巡らせてもらえればと思っている。

結論的なことをあらかじめ言わせていただくならば、われわれ日本人が「個」に無頓着なのはいわば「筋金入り」のことであって、その克服のためには、よほど用心してかかる必要があるのでは、ということだ。


<自動詞構文への好み>

他動詞を使う英語と自動詞を使う日本語

「整理したため物が動いているかもしれません。よろしくお願いします。」

この一文は、年度末の大掃除の後、勤め先の給湯室のシンク上の棚に張り出された掲示である。
この日本語について、最近、ある英語の先生から質問を受けた。彼女は日本人なのだが、むしろ英語のほうが書くのも話すのも楽なのではというくらいどっぷりと英語の世界に浸かってきた人。

その先生が「ミスターまるお、この日本語は変ではないか。この表現だとものが勝手に動いたようで変な感じがする。『動いた』ではなく、『動かした』と言うべきではないのか?」と言うのである。
お皿やコップが自動的に動いたわけではなく、<動かした人>がいるのだから、自動詞ではなく他動詞を使うべきではないかという発想である。

しかしながら、日本語では、たとえその事態を引き起こした<動作主>が存在したとしても起こった結果のほうにだけ注目して、自動詞によって表現されることはよくあることである。

英語の先生の問いかけは、<スル>的性質を持つ英語的感覚が感じ取った日本語の<ナル>的性質に対する違和感ということができよう。

同様の例としては、次のようなものがある。

子どもがミルクをこぼしてしまった時、英語なら、

“Oh,no,She spilled the milk.”

のように動作主を明示し他動詞で表現されるところを、日本語では、

「あら、ミルクがこぼれちゃった。」

というように自動詞での表現もよくなされる。
(ジョン・ハインズ『日本語らしさと英語らしさ』くろしお出版,P.27)

※なお、この方面については『「する」と「なる」の言語学』以来の池上嘉彦氏の諸研究がとても参考になる(本記事末の文献リスト参照)。


他動詞の受動態対自動詞
日本語における自動詞構文を好む性質は、英語では他動詞の受身を使った言い方がなされるのに対して、日本語では自動詞が使われるという例にも見られる。

日本語では、通常、

「彼は戦争で死んだ。」

のように自動詞を使った表現がなされるが、英語では、ふつう次のような言い方となるそうだ。

He was killed in the war.

直訳すれば、「彼は戦争で殺された」となる。

日本語では、病死と同様の言い方になっているのに対して、英語では<動作主>、つまり「敵」の存在が他動詞を使うことで含意されている。
(池上嘉彦他(2009)p.20)


同様の日英の間の対立は、感情を表す一連の表現の間にも認められる。
日本語では、

「喜ぶ」、「がっかりする」、「満足する」、「驚く」

と自動詞が使われるところで、英語では、

be delighted、be disappointed、be satisfied、be surprised

と、他動詞の受動態が使われる。

「日本語話者にとっては<自然とそうなる>ものとして受け止められているが、英語話者にとっては<何かがそうさせる>として捉えられている」と池上氏は指摘している(同上)。


<ここまでのまとめ>
上に見たような日本語話者に見られる「自動詞構文」への好みから、池上氏は、日英語両話者について次のような傾向の違いを指摘する(同上、p.22)。

英語話者 :<起因>に拘り<事態把握>をする傾向が認められる。

日本語話者:<起因>を考慮外に置いて出来事そのものの<出来>に焦点を当てて<事態把握>を行う 傾向が認められる。
(まるお要約)

池上氏が指摘されている日本語の<ナル>的性質(「自動詞」的性質といってもいい)については、心理学者でもあり日本語学者でもあった佐久間鼎が早く次のように指摘している。

**
…日本語ではとかく物事が<おのずから然る>ように表現しようとする傾きを示すのに対して、英語などでは<何物かが然する>ように、さらには<何物かにそうさせられる>かのように表現しようとする傾きを見せている…。
佐久間鼎(1941)『日本語の特質』育英書院(1995年にくろしお出版より復刻)
**

佐久間の言う「何物」とは、「主体」のことである。
「主体」を析出しようとする英語と、背景に沈める日本語。
英語などと日本語の間に認められる「主体」の扱いの違いが注目される。

(つづく)

次回は、「~と思われる」、「~ように思える」のようないわゆる自発表現と、「この度、結婚することになりました」式の言い方を取り上げる予定。



<池上氏の文献>
(1981)『「する」と「なる」の言語学』大修館書店
(1982)「表現構造の比較 ― <スル>的な言語と<ナル>的な言語」『日英語比較講座第4巻 発想と表現』大修館書店
(2006)『英語の感覚・日本語の感覚 <ことばの意味>のしくみ』NHKブックス
(2007)『日本語と日本語論』ちくま学芸文庫(池上(2000)『「日本語論」への招待』講談社の改題)


守屋三千代氏との共著
(2009)『自然な日本語を教えるために 認知言語学をふまえて』ひつじ書房





1 ■続きが待たれます!
 面白く拝読しました。私は、楽しみに続きを待ちます。と、言い換えてみたり…。

 昔、(高校の倫社かな?の、)ヨーロッパの哲学史かなにかの余談で、「だから、お皿が割れたら、割った私の所為じゃなくて、『お皿は割れるという性質を持っている』と言ったら良いんですよ」と、先生が冗談をおっしゃったのですが、冗談の方だけ覚えていて、本体を覚えていません(涙)。

2 ■Re:続きが待たれます!
>とまてさん
応援、ありがとうございます。

「続きが待たれます」って、「自発」ですね!

哲学史のお話、不案内で誰の説かわかりませんが、念頭に置いておきたいと思います。

3 ■中国の方からご覧になった日本語
『お皿が割れた』表現、元ネタは何だったっけ?と、ググッてみて、目的のものは発見できなかったのですが、中国の方が日本にいらっしゃった体験による、日本語についての文章が読めました。
http://www.docin.com/p-13515348.html

4 ■Re:中国の方からご覧になった日本語
>とまてさん
興味深いレポートをご紹介いただき、ありがとうございます。

「お茶が入りましたよ。」「ご飯ができましたよ。」式の自動詞を使った言い方も、日本語のナル的性質を示すものと言えるかもしれませんね。

この点については、ポンフェイ氏の『日本語の「配慮表現」に関する研究 中国語との比較研究における諸問題』(笠間書院)という大著でも取り上げられてはいますが、「中国語にはない」とは明言されていませんでした(確か)。
中国語や英語ではどうなるのか?、確認してみたいと思います。

なお、同じポン氏の『日本人と中国人とのコミュニケーション 「ちょっと」はちょっと… ポンフェイ博士の日本語の不思議』(和泉書院)は、とっても分かりやすく外国人の目から見た日本語の「不思議」について書かれていて、超おススメめです。
ご紹介いただいたレポートを書いた学生さんも目を通されているようです。

5 ■「このたび値上げとなります」
 まるおさん、お久しぶりです。
 続きを刮目してお待ちしています!
 ほんとに、なんで、日本語は自動詞が多用されるんでしょうね。
 「このたび値上げとなります」の不思議さ、責任所在の曖昧さを指摘した本を読んで、気持ち悪いと感じたことがあります。以来、つとめて自動詞・自分が〇〇する系の表現を使ってきました。すると当たりがきついのでしょうか、なんとなく、まわりに溝を感じるときがあるのです(爆)
 冗談はさておき。『お皿が割れる』の従兄弟に当たる話を思い出しました。
 発達障害の専門家の話を聴いていて、ケーススタディのビデオで、ある子が『スリッパを投げて、ガラスを割った』シーンがあったのです。ふつうなら彼は『ガラスを割った悪い子』になってしまいます。でも、講師は、その解釈は違うとおっしゃいました。『腹立ち紛れにスリッパを投げたら、たまたま、そこにガラスがあった。だから、彼は悪くない。』ものすごく細かく物事・事象を時系列で分析するのです。アメリカ帰りの講師だと記憶しています。
 日本語のナル的性質により、冷静な観察眼が曇らされているカモシレナイ・・と、ふと思いました。

6 ■Re:「このたび値上げとなります」
>猫紫紺さん
ご声援、ありがとうございます。
続きはすぐに書けるかと思っていましたが、「~ことになる」について書こうとしたらいろいろ気になることが出てきまして、いつものごとく遅々たる歩みで…。
でも、明日にはアップしたいと思っています。

それはさておき、日本語の「自動詞的性質」の例証となる興味深いお話にも感謝です。
それ、けっして「冗談」ではないと思いますです。

後半のお話も非常に考えさせられていただいております!
「自動詞的表現」とは、非分析的な表現であり、そこで析出されないのは、「主体・原因」(合わせて起因)」と言ってよさそうな気がしています。