<160> #2

2010-12-09 21:31:08

文法的観点から見た「主体」に対する意識の希薄さ ― PTA問題の底流にあるもの(2)

テーマ:エビデンスとしての日本語
(一応、完成)
池上嘉彦氏の研究(『「する」と「なる」の言語学』等)に学びながら、前回確認したのは次のようなことであった。

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同じ状況を表現するのでも、英語では他動詞構文を使い、その事態を成り立たせる主体の存在が意識されるのに対して、日本語では自動詞構文が用いられ主体の存在が特に意識されないことがままある。

このことは、事態を引き起こす主体(=「起因」)の存在に拘る英語に比して、日本語には「主体」、「起因」といったものに無頓着な傾向が認められることを意味する。
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今回は、日本語の<ナル>的性質を示す表現のうち、「~ことになる」をとりあげたい。
「~と考えられる」「~ように思える」などについては、次回取り上げます。


<「結婚することになりました」>
日本語の<ナル>的性質を示すものとしてよく話題にのぼるのが「~ことになる」という言い方だ。
日本語では、結婚の予定を知らせる場合、ふつう次のような言い方をする。

このたび結婚することになりました

いっぽう、英語では次のような表現がふつうのようだ。

We are getting married.

日本語に直訳すれば、「私たちは結婚します。」
英語では、このような場合、becomeを日本語のように補助動詞的に使うことはないとのことである(池上(2006)p.175)。


<「~ことにする」と「~ことになる」の基本的な意味>
基本的に、「する」は、「勉強する」、「練習する」、「経営する」、「インタビューする」、「読書する」のように、主体が意思的・能動的に行う動作を表す。それに対して、「なる」は、「春になる」「朝になる」「寒くなる」のような自然現象、「病気になる」「元気になる」のような意思によるコントロールが効きにくい生理現象等、非作為的・非意思的な出来事の成立、つまり「成り行き」を表す。

「~ことにする」と「~ことになる」の基本的な使い分けも、上に見た本動詞としての性質の違いを反映している。

今度のお正月にはハワイに行くことにした。
今度中国に出張に行くことになった。

「~ことにする」は、「自らの意思で主体的に決めたこと」を表し、「~ことになる」は、「自らの意思とは別のところで決まったこと」を表す。その事態の成立に主体の意思が関与しているか否かで使い分けられているわけである。(この部分の例文と解釈は『中上級を教える人のための 日本語文法ハンドブック』(スリーエーネットワーク)を一部参照。)


<「結婚することになる」式の表現 成立の背景>
このような基本的な用法から考えると、「結婚することになった」と言った場合、その「結婚」は、「主体的・能動的なものではなく、望まれざるものだったのか?」という「突っ込み」が成り立つことになる。

もちろん、会社から出張命令を受けて出張に行くのと同様の「非主体的」な結婚もありえようが(その場合、「結婚することになりました」は実態を正確に反映した表現とも言える)、興味深いのは、自らの意思で能動的に踏み切った結婚であっても、日本語では「することになりました」式の言い方が多用されることだ。

結婚という人生の一大イベントが、「春になった」、「病気になった」等と同じ<自然の成り行き>のごとく表現されているわけである(板坂元(1971)『日本人の論理構造』講談社現代新書)。

もっとも、日本人とて、気の置けない友達には、

結婚するんだ。
とか、
結婚することにしたよ。

と、<スル>的な表現がなされる場合もある。
しかし、職場の上司のような気の張る相手には、やはり「~ことになる」式の言い方を使うことが多いだろう。また結婚式の招待状にも通常この<ナル>的な言い方が用いられていると言ってよさそうだ。

類例としては、以下のようなものがある。

今度引っ越すことになりました。どうも長い間お世話になりました。

さて、この たび、○○○株式会社と株式会社○○○の両社は、本日をもって合併いたし、新たに株式会社○○○○として発足することになりました。(<会社で必要なマナー文例>より) http://www.happycampus.co.jp/groups/kaisyabunrei/docs/?mem_key=&page=10


しかし考えれば不思議な話で、なぜ、われわれは“事実”のまま「結婚します」「結婚するつもりです」などとは言いにくく、わざわざ「ことになる」をくっつけるのか?

それは、結局、自らの【行為の主体性を薄める】ためだと言えよう。(池上(2006)p.175)
「結婚する」というそのままでは意志的な行為を示す表現に「なる」をつけることによって、個人の能動性・積極性・主体性を消去、あるいは希薄化しているのだと考えられる。

個人の能動性・積極性・意思性、要するに主体性を前面に出すことを私たちは憚っているということだろう。

そしてその背景には、主体性をネガティブなものとする価値観が認められると言えそうだ。
このことは、「作為的」という言葉が明らかにネガティブな意味でつかわれていることからもうかがい知れることだ。

「主体性の尊重」というタテマエとは裏腹に、日本文化のホンネは、「長いものには巻かれよ! 主体性など持つな」というものなのかもしれない。
そのホンネを感じ取り、「~ことになる」式の表現が今も盛んに使われているのではないだろうか。

前回取り上げた表現からは主体に無頓着なわれわれの姿が見えてきたが、今回浮かび上がってきたのは、「主体性・能動性・積極性」といったものに対してネガな態度を持つわれわれの姿だと言えようか。


<主体性を薄めるために用いられるその他の表現>
そのような目で日本語を見てみると、日本人の言葉遣いには、主体性を薄めるための表現が他にもいくつも認められる。

・僭越ながらご指名にあずかりまして、乾杯の音頭をとらせていただきます
(指名され、またみんなから許されて行うことが強調されている。)
※これもよく話題になる「~させていただく」(相手の許可を得ての行為として表現)は行為の主体性の薄めとして使われていると言える。
(上の例文は、ポンフェイ(2006)『日本人と中国人とのコミュニケーション  「ちょっと」はちょっと… ポンフェイ博士の日本語の不思議』(和泉書院)でとりあげられている。)

・ただいま○○さんもおっしゃっているように、わたしも~~と思っています。
(私ひとりの考えではないことの強調)

さらに、日本語では、
「明日はちょっと都合が悪くて…。」
のような言いさし表現、つまり、自らの言わんとすることを最後まで言い切らず、相手の察しに委ねる表現がよく使われるとされるが、これも、主体性を薄めるための方略の一つと言えるだろう。
板坂元(1971)は、この類の言いさし表現を日本人の「自発」好みと関連づけ、「西洋人をとまどいさせるもののひとつ」としている。(『日本人の論理表現』講談社現代新書(p.86)。)


<中国語や韓国語では>
何人かの留学生に聞いてみた。

中国語では
中国語では、「私、結婚します。」、「私、結婚するつもりです。」、あるいは「決めました。私、結婚します。」のような言い方しかできず、「結婚することになりました。」は、「直訳できない」とのことである。
そう言う言い方が日本語にあることはどの学生も把握していたが、「そう言えば、日本人はなんでこんな言い方をするのでしょう? 不思議です!?」という反応だった。

香港出身の学生は、「中国では、結婚することが決まったら、一年か場合によっては二年前から、ことあるごとに『私結婚するよ(嬉)』とみんなに言ってまわります。でも、日本ではそんなことはありえないですよね。」と言った。

確かに、日本では、そんなことをしたら大顰蹙を買うことになるだろう。
たった一回言うときでさえ、「結婚することになりまして…」と「己(おのれ)」の気配を背景に沈めた表現を工夫する人が多い。
彼我の違いを感じさせられた。

台湾の学生は、「春になる」、「寒くなる」が中国語ではどのように表現されるか教えてくれた。直訳すると、「春が【来る】」、「寒い状態に【変わる】」といった言い方になるそうだ。
それらの表現が、「結婚」に使われることは考えられない、と。

韓国語では
韓国の学生に聞いたところ、

「韓国語でも『結婚することになる』という言い方はしようと思えばできますが、ふつうは言わないと思います。もし言ったら、違和感のある、日本語っぽい言い方になってしまいます。」

と説明してくれた。

実は、文法的に似たところの多い韓国語では同じような表現があるのではと思っていたのだが、違っていた。
日本人の「主体」というものに対するスタンスは、やはり、意識化・対象化されるべきだなと改めて思わせられました。


もうひとつ、「行為の主体性を薄める」ために日本人が「愛用」している表現が、「自発」を表すとされる助動詞「~れる(られる)」だ。
これについては、次のエントリで。


追記(12.10)韓国の学生の指摘と符合する指摘が『韓国語通信 vol2』にもあるようなので、リンクさせていただく。それによると、韓国語は日本語よりもずっと<スル>的性質が強いようだ。
<韓国語通信から 私たち、結婚することになりました>





1 ■歯がゆい物を感じます。
いつもいつも、まるおさんのご投稿には、考えさせられます。

「なる」的発想にどっぷりつかっている状態から出てくるイメージは・・・ぬるま湯に皆で浸かって、ゆらゆらと身を任せながら「どーせかわらんさ」「変わらんよな」とつぶやき合っている光景です。自立、していないんですね。ぬるま湯は少しずつ抜かれてきているのか、どうかわかりませんけれども。
たわごとでした。

2 ■Re:歯がゆい物を感じます。
>猫紫紺さん
こちらこそ、いつも温かい励ましのコメント、ありがとうございます。また、お礼を申すのが遅くなってしまいましたが、御ブログにて拙エントリのことをまたまたご紹介いただき、恐縮しています。http://blog.goo.ne.jp/yamyam00/e/cc171c17f6451dbbea84755e932f8fb2

遅々たる歩みですが、年末年始は少しペースアップして行きたいと思っています。

「なる」的発想と、「自立せず、ぬるま湯に皆で浸かって、ゆらゆらと身を任せながら「どーせかわらんさ」「変わらんよな」とつぶやき合う」イメージのお話、とても興味深く伺いました。