<235> #2

2012-12-13 21:57:47

小平手話サークル2012年度講演会(小平市福祉会館) 

テーマ:エビデンスとしての日本語
昨年度に続いて小平手話サークルからのご依頼があり、世間学会のあった翌週の火曜日(11月13日)の19:00から、

第二言語としての日本語を考える
~「私」との関わりが表現される言語 ~


と題して日本語についてお話ししました。
(昨年度の様子は、こちら)


主催者の方から「第二言語としての日本語」というお題が示され、「日本語のどんなところに注意しながら外国人学習者への日本語教育に携わっているのか話してほしい。手話通訳の勉強をしている人や、健常者に日本手話を教えている人の参考になると思う。」といったお話でした。

話の中心は、日本語における「自己中心的な視点」です。
以下に、講演会当日に配布したハンドアウトを貼っておきます。なお、ハンドアウトにもともと記されていた説明は黒字、当日話した内容等は青字で示します。


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0.はじめに
0.1 第一言語(母語)と第二言語

第一言語は自然に身につけられるが、第二言語を習得するには意識的に学習することが必要。

・『みんなの日本語』と『新文化初級日本語』
・学習を始めた場所の違い(日本か母国か)

① 日本語教育(初級)の現場では、現在、『みんなの日本語』(スリーエーネットワーク)が圧倒的なシェアを誇っているが、それは「文法(文型)」がしっかりと教授・学習できる点が評価されているからだと思っている。(なお、中級においては文化外国語専門学校の『文化中級日本語』が多くの日本語教育機関で使われている。)

② 日本語教育に長年携わってきた経験からすると、ゼロレベルから日本で日本語の勉強をしてきた学生と較べて、中級までは母国で学習してきた学生は(来日当初は聞き取りと発話にたどたどしさがあるものの)上級レベルにおいて伸びる傾向があるように思う。

上記二つの点から、第二言語の学習には文法・文型についての意識的な学習が重要であることがうかがわれる。



0.2 「第二言語としての日本語」との相性
ひと口に「第二言語としての日本語」と言っても、学習者の母語によって習得の難しさは違ってくる。
学習者の母語のタイプが日本語に近ければ習得の困難度は低くなり、日本語から遠ければ習得の困難度は高くなる。

・韓国語母語話者と中国語母語話者における日本語習得の困難度の違い
困難度:( 中国語 )>( 韓国語 )
韓国語は日本語と文法がもっとも近い言語と言われている。韓国語を母語とする学習者が中国語や欧米系の言語を母語とする学習者に較べて、ずっと楽に日本語を身につけることは日本語教育に携わる多くの者が感じることだと思う。

では、習得の困難度に関係する「日本語の特徴」はどのようなものか?


1.日本語の特徴 -自己中心的視点

1.1 「自己中心的な視点」と「第三者的な視点」

「自己中心的な視点」:自分に密着したところから世界を見る。
・自分自身は視野に入らない。「自己」は特別な扱いを受ける。
・「『私』との関わり」が表現される。

「第三者的視点」:自分から離れた第三者的な位置から世界を見る。
・自分自身も「登場人物」の一人として扱われる。
・発端と結末(主体から客体へという客観的な流れ)が表現される。

日本語は、「自己中心的な視点」を強く持つ言語。

「自己中心的な視点」における「自分自身は視野に入らない。「自己」は特別な扱いを受ける。」という側面に関しては以下の2.1~2.3において触れる。いっぽう、「「『私』との関わり」が表現される。」という側面については2.4~2.7で触れる。


2.「自己中心的な視点」に由来する表現とは
2.1 「今、私はどこにいますか?」


(1)「今、あなた、どこにいるの?」
(2)「今、あの人、どこにいるの?」
(3)??「今、私、どこにいるの?」⇒ここは、どこ?

(4) Where are you?
(5) Where is he?
(6) Where am I?

英語では「自己」は二人称、三人称と同じように扱われている。つまり、英語話者は「自己」を突き放して「他者」と同じように扱っている。(第三者的視点)
一方、日本語では「自己」は二人称、三人称とは違う特別な扱いを受けている。
(自己中心的視点)

中国語は両様の言い方が可能なようだ。


2.2 「私は星を見ます。」/「私は虫の鳴き声を聞きます。」

(1)「星が見えるね。」
(2)「虫の鳴き声が聞こえるね。」

(3) I see stars.
(4) I hear a humming of insects.

日本語では、通常、「私」は表現者の視野に入らず表現されない。

中国語も日本語と同様の「私」抜きの言い方が普通とのこと。


2.3 「鈴木さんはうれしいです。」

(1)「(わたしは)うれしいです。」
(2)??「あなたはうれしいです。」
(3)??「鈴木さんはうれしいです。」

(4) I am happy.
(5) You are happy.
(6) He is happy.

英語では各人称が同列に扱われているが、日本語ではそうなっていない。

韓国語には日本語と同様の制限が見られる。なお、2.1と2.2においても韓国語は日本語と同様の振る舞いをする。


2.4 「鈴木さんが私に素敵なプレゼントをあげました。」

(「与え手」が主語)
(1)鈴木さんが佐藤さんにプレゼントをあげた。(「私」の立場:第三者)
(2) 私が鈴木さんにプレゼントをあげた。(「私」の立場:与え手)
(3)鈴木さんがわたしにプレゼントをくれた。(「私」の立場:受け手)

(「与え手」が主語)
(4) Mr.Suzuki gave a present to Mr.Sato.
(5)I gave a present to Mr.Suzuki.
(6) Mr.Suzuki gave a present to me.
(中国語は「給(ゲイ)」、韓国語は「주다(チュダ)」)

第三者的な視点から「与え行為」を眺めた場合、「自分」の立場が与え手であれ受け手であれ、(突き放されて他者と同様に見られているので)そこには「人物Aから人物Bに対してなされる行為」という共通性が認められる。
一方、自己中心的な視点から「与え行為」を見た場合、「自分」が与え手であるか受け手であるかで「別もの」となる。

一方、「あげる」と「もらう」の使い分けは、与え手が主語になる(「あげる」)のか受け手が主語になる(「もらう」)のかの違いに対応しており、他言語にも幅広く認められる。

**********
・「あげる」と「もらう」を区別する基準 
主語(動作の主体)が与え手なのか受け手なのかが問題で、「私」との関わりは問題にならない。
⇒第三者的な視点からの使い分け

・「あげる」と「くれる」を区別する基準 
「私」が与え手なのか受け手なのかが問題で、「私」との関わりが問題になっている。
⇒自己中心的な視点からの使い分け
**********
※日本語は「私」中心の言語。つまり、「私」の視点から事態を捉え、描写する性格が強い。



2.5 「友だちのAさんが私の引越しを手伝いました。」

(1)「AさんがBさんの引越しを手伝ったそうです。」
(2)??「Aさんが(私の)引越しを手伝いました。」
Aさんが引越しを手伝ってくれました。

「自分」への影響(受益感情)が表現されないと自然な「文」にならない。

「~てあげる」「~てくれる」「~てもらう」といった恩恵性を表す表現は、そもそも欧米の言語や中国語には見当たらない。山田敏弘 (2004)によると、日本語以外に授受の補助動詞を用いて恩恵性を表わすのは、韓国語、ヒンディ語、モンゴル語、カザフ語などかなり限定された言語に限られる(p.341~355)。

他言語における類似の表現との違いについては、世間学会発表のハンドアウトの注3参照。



2.6 「今朝5時に父が私を起こして、私に身支度しろと言った。」

(1)「今朝5時に父に起こされ、身支度しろと言われた。」(映画『アンネの日記』)

(2) This morning ,father woke me up at 5 O’clock and told me to hurry.(映画『Anne』)
(韓国語、マラーティ語も英語と同様に能動態。)

日本語では、受動態にすることで『「自分」への影響』が表現される。
一方、「英語や韓国語は、主体から客体へという客観的な流れを重んじ、事態の行為者の視点から事態を捉え、能動文で描写する傾向が強い。」(堀江他(2009)p.198)

堀江他(2009)では、日本語原文のものとして『窓ぎわのトットちゃん』と『こころ』、英語原文のものとして映画The Diary of Anne Frankとその各国語訳を使って、日本語、韓国語、英語、中国語、マラーティー語において受動文がどのくらい使われるかが調査されている。それによると、日本語が受動文を多用する傾向が明らかに認められる。

『トットちゃん』とその訳における受動構文の分布は以下のとおりとされる。
日本語:80
韓国語:47
英語:37
中国語:31
マラーティー語:7


『こころ』とその訳における受動構文の分布も、同様の結果となっている。
日本語:339
韓国語:164
英語:102
マラーティー語:42

では、なぜ日本語には受動文が多いのか。ここにおいても、「自己中心的な視点」が関与していると考えられる。
英語、中国語、そして韓国語においては、動作の主体を中心にして(つまり主語にして)文を組み立てる傾向は、たとえ自分(あるいは自分が共感する存在)が動作の受け手である場合も維持される。それに対して、日本語では、自分(あるいは自分が共感する存在)が動作の受け手となる場合、自分を主語にして(つまり、受け手である自分の視点から事態を眺めて)、受動文が用いられる強い傾向がある。



2.7 「国の母が僕にリンゴを送った。」

自己中心的な性質を示すものとして、「行為の自己への接近」を示す「~てくる」について見ておく。

(1)「鈴木君が佐藤君を訪ねたそうだ。」
(2)??「鈴木君が僕を訪ねた。」⇒鈴木君が訪ねてきた。
(3)「母がアメリカに留学している弟にリンゴを送ったそうだ。」
(4)??「母が私にリンゴを送った。」⇒母がリンゴを送ってきた。

日本語では、(行為の)「自己」への接近には特別な表現が使われる。

では、他言語では、どうなるだろう?

(5)健が僕に手紙を書いてきた。
(6)健が僕にボールを投げてきた。
(7)健が僕に電話をしてきた。
(8)健が僕に招待状を送ってきた。

堀江他(2009)では、(5)~(8)の表現が他言語ではどのように表現されるのかについて、母語話者に対するアンケート調査により調べた。
対象言語は、

ベトナム語、タイ語、クメール語 ←東南アジアの言語
中国語、モンゴル語
韓国語、英語
ヒンディー語、マラーティー語、ネパール語、ベンガル語 ←南アジアの言語

である。


その結果、日本語と同様に「~てくる」に相当する表現を義務的に使用する言語は、第一列目にあげたベトナム語などの東南アジアの言語であった。一方、「~てくる」に相当する表現を用いないのは三列目の韓国語、英語と四列目の南アジアの諸言語であった。
二列目の中国語は、(8)に関しては「~てくる」に相当する表現が用いられるとのことだが、それ以外のものについては使っても使わなくてもどちらでもよいとの結果が出た。モンゴル語は、(8)のみ「~てくる」に相当する表現を使ってもよく、(5)(6)(7)は使わないとの結果が出ている。


※受身においても東南アジアの言語は、日本語に近いふるまいをしている点が興味深い。特に、ベトナム語は、特殊日本的な受身として話題になってきた用法がすべて揃っている。

(2.6と2.7は、堀江他(2009)の一部を要約したもの。)


3.まとめ
日本語に最も近いと言われる韓国語との間にも興味深い違いがみられた。
東南アジアの言語との間に見られる同質性は注目されるが、それらの言語には「あげる」・「くれる」の使い分けはないし、日本語のような敬語も認められない。
このように見てくると、日本語は、その自己中心的発想において際立った特徴のある言語と言える(一方、英語は第三者的発想において際立った特徴を持つ)。
日本語を第二言語として習得するには、この日本語の構造上のポイントを押さえた学習・教授が必要となる。


参考文献
安西徹雄(2000)『英語の発想』ちくま学芸文庫(元、講談社現代新書(1983))
池上嘉彦(2006)『英語の感覚・日本語の感覚』NHKブックス
池上嘉彦(2007)『日本語と日本語論』ちくま学芸文庫
金谷武洋(2004)『英語にも主語はなかった 日本語文法から言語千年史へ』講談社選書メチエ
堀江薫,ブラシャント・パルデシ(2009)『言語のタイポロジー ― 認知類型論のアプローチ ―』研究社
森田良行(1998)『日本人の発想、日本語の表現』中公新書
森田良行(2002)『日本語文法の発想』ひつじ書房
山田敏弘 (2004)『日本語のベネファクティブ ―「てやる」「てくれる」「てもらう」の文法―』明治書院
加藤薫(2012)「日本語の構文的特徴から見えてくるもの ―「主体・客体」と「自分・相手」―」『文化学園大学紀要 人文・社会科学研究』20号

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なおなお、ハンドアウトは、講演の約一週間前に主催者に提出したもので、世間学会で受けた問題提起は反映されていません。
「自己」という用語の検討、ふたつの「私」の問題は近々とりあげたいと思っています。





1 ■非常に興味深いです
PTA関連のことを調べていて読み始めました。
勿論、PTAについてのことは非常に勉強になりいろいろ考えさせられたのですが、日本語論に関しても非常に興味深く拝読させていただきました。
私の長男は発達障害(自閉症スペクトラム)です。一般的に、自閉症では一部を除いて、言語面での発達が遅いとされています。長男も喋り始めが2歳すぎと遅く、二語文に移行するまでに約一年かかりました。
この春に就学しますが、言語面では同年齢の子供たちより約一年強の遅れがあると言われております。
抽象的な話・長文の理解が難しい、語彙力が乏しい、といった面のほかに、「てにをは」がなかなか上手く使えない・「あげる」「くれる」「もらう」や「してあげる」「してもらう」の区別が難しいのです。
その一因が、それら日本語で多用される表現が「対人関係」を重視したものであるとのご指摘を読み、はっとしたのです。
ご存知のように、自閉症者は対人関係の構築が苦手であり、また、「場の空気を読む」「言葉の裏の意味を察する」ということが難しいという障害特性があります。
彼がなかなか「あげる」「くれる」「もらう」等の表現の区別を理解できないのは、「人との関係性や距離感が掴みにくい」という障害特性と深い関係があるのかもしれない、と感じました。

これからもブログの更新を楽しみにしております。
寒さ厳しき折、くれぐれもご自愛ください。

2 ■Re:非常に興味深いです(まるお)
>ちまきさん
はじめまして。
拙い日本語論がちまきさんの何らかのご参考になったのならこんなうれしいことはありません。
今後ともよろしくお願いいたします。

以下、長文注意ですが、何かのご参考になれば。
自閉症について私は全くの不案内なのですが、比較的最近読んだ本に、熊谷高幸氏の『日本語は映像的である』(新曜社)があります。
著者の熊谷氏は、発達心理学が専門で、中でも自閉症者のコミュニケーション障害について長年取り組んで来た方だそうです。

「日本語は、共同注視という働きに忠実な形で発展してきた言語であり、その結果、非常に映像的である」(「はじめに」より)というのがその論の骨子です。

私の問題意識にも重なり、非常に刺激を受け、参考になっている本です。何かのご参考になればと思い紹介させていただきました。
(ただし、「?」なところもあります。)

ちなみに、日本人の自閉症者は「こそあど」の使い分けを苦手とするのに対して、英語圏の自閉症児は「I」と「you」の使い分けを苦手とするといった話も紹介されていました。