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2010-04-06 17:12:45

関係性の中の「わたし」⑥ 敬語(その4) 日本的敬語のもたらす問題性(ⅱ)

テーマ:エビデンスとしての日本語
社会言語学者の田中克彦氏は、「敬語は日本語を世界から閉ざす」(『月刊言語』28巻11号、1999) (※前々エントリでも取り上げています)の中で、日本語の敬語が「上下関係」を反映することを、「権力関係を露骨に反映する」、「支配と従属の心理を再生産する」と鋭く問題にする。

<「敬語と権力」>
氏は、ある留学生がその本国に進出していた日系企業に勤めていたときに、上司に対して「あなたは…」と話しかけたことが原因で突然クビにされたことを話題にし、「日本語では、自分を支配する人間に対しては、通常の二人称代名詞が使えない」のだとする。
そして、日本語の敬語の持つ問題性を次のように総括する。

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 こうした深刻な問題(まるお注:留学生がクビになった話)をひき起こす敬語表現は二人称において生じる。すなわち、話し手と受け手との間で、それは上、下、もっと社会学的に言えば、支配と被支配の権力関係に根ざしている。いかにそれを粉飾しようと、権力の関係であることは、「あなた」と言ってクビになった使用人の例が何よりの証拠だ。
(…)
 二人称敬語は権力関係そのものを反映するだけではなく、その権力関係を温存し、形骸化した後もなおも強化しつづける点で、平等主義と民主主義にとっては絶えざる敵である。人々は、たがいに、相手との権力関係を計測しながら、いまはどのクラスの敬語法を用いるべきか判断する。
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<「権力」と「連帯」>
氏が日本語の敬語の「わずらわしさ」を問題にすると、「敬語は日本語だけのものではない。どんな言語にもある。」といった反論が「日本語を専業とする人たち」からなされるという。
それに対して、氏は、西洋語にも接続法や問いかけの形による「ていねい」な表現があることは認めつつ、それらと「権力関係」を反映する日本語の敬語との間には一線を引く。

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 おそらく近代化をやりぬいたヨーロッパでは、対話の中での支配と従属の関係を廃絶して、連帯の関係へと、人間関係のあり方を、言語表現の中にも定着させたのである。R・ブラウンとA・ギルマンが、power(権力)とsolidarity(連帯)という用語を用いて、二人称代名詞の歴史を扱った背景にはそのような展望があったのである。
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<「ドレイ的な訓練」>

日本的な敬語のどこが問題なのか。氏の論文の結びの部分を見ておこう。

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 私の心配は次のようなものだ。敬語使用の練習問題にこっているうちに、日本語は国際的な言語マーケットから追い落とされてしまうかもしれないと。いまから百年以上も昔に、当時の代表的な言語学者が日本語につい述べた次のような感想は、残念なことに、まだ有効なのである。

この言語は、過度の敬語法という重荷を背負っていて、ふつうの(simple)代名詞は使えないようなありさまだ。(W・D・ホイットニー『言語の生命と成長』)

 敬語の習熟にいそしむことは、決して知力の鍛錬に貢献しないのみか、その逆である。それは、人類がすでに克服して来た、支配と従属の心理を、言語的に心に刻むための、ドレイ的訓練である。
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