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2010-04-05 19:40:28

関係性の中の「わたし」⑥ 敬語(その4) 日本的敬語のもたらす問題性(ⅰ)

テーマ:エビデンスとしての日本語
日本語の敬語の特質として、次の二点を確認してきた。

①敬語と言えるものが二人称の代名詞にほぼ限られる欧州の言語等と違って、日本語では各人称、相手の動作(尊敬語) 、自らの動作(謙譲語)、文末(丁寧語)等と、広範囲に敬語が認められること、
②欧州の言語における敬語が親疎の関係(Solidarity)を反映するものなのに対して、日本語の敬語は上下の関係(Power)も反映する。

これらの特質からどのようなことが生じるかといえば、日本語を使って話をする場合、常に相手との間の権力関係(相手は自分よりも上なのか下なのか同等なのか)を意識せざるを得ないということである。

以下では、こういった日本語における敬語の特質がもたらす負の側面について、先学の言及を振り返りつつ、見ていきたい。

まずは、前エントリでも取り上げたネウストプニー氏の発言を見てみよう。

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現代日本語(東京語)の敬意の表現は、たしかに、伝統的なタイプの範囲を出ていて、それほど古くはないが、やはり、現代英語と比べて敬意の表現は非常に多い。
日本と同じように、アメリカでも実業家とその運転手の社会的な地位は異なるが、その事実はそれほどコミュニケートされない。
ヨーロッパ大陸の人も英語人と付き合うと、身分や親しさの程度を表現しすぎる傾向があるが、日本人ほどではない。

日本語の話し手は外国語でコミュニケートしても、身分や連帯関係を表現しすぎる。目上への伝達を中立的なレベルでする事、知らない人と、親しすぎずよそよそしすぎない態度で付き合う事は、非常にむずかしいようだ。

筆者の知っている日本人留学生は、パーティーのような社交的な場面でも、その人の教授が部屋にはいってくると、他の人との話を打ち切って教授に挨拶する。反対に、日本語で目下とみられるような人に対する場合には、英語としては明らかに乱暴な態度が出る事がある。たとえば、店の売り子は、英語では同等な人間として扱わなければならないのに、人間不在のような態度がしばしばあらわれる。(中略)

敬意のover-communicationもunder-communicationもたしかに、国際社会における日本語の話し手の苦しい問題であろう。
(適宜改行を行った)
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「国際コミュニケーション」を行う際に日本人が陥りがちな姿として指摘が行われているが、これは、「上の者には気を遣いすぎ、下の者には気を遣わなさすぎる」という日本人における“アンバランス”を指摘したものとしても読める指摘である。

そこに認められるのは、畏まり・遜り(へりくだり)と弛緩・尊大。
そこに希薄なのは、理性に基づく自立的な個人。対等な存在としての一人の人間と一人の人間の対峙。

つぶやき:
上には畏まり、下にはふんぞり返る。
仲間とは…、つるむ。
そうなると、どこにも対等な個人間の「対話」が成立する場がないことにならないか!