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2010-02-08 22:40:52

関係性の中の「わたし」⑤ 「しどろもどろ」になる内的必然性 「その時から僕は言葉を」(伊丹十三)

テーマ:エビデンスとしての日本語
伊丹十三の次の発言は、日本語における「あいづち」の多用を考える上で参考になる。

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(日本では)相当な文章を書かれる方でも喋るとしどろもどろということが珍しくない。つまり母子関係の中ではしどろもどろに喋っても、あと、足りないところをお母さんに察してもらうことができる。だから極端なことをいうならこの「察し」に支えられたしどろもどろの言葉のやりとりというのが双数的関係における言葉の礼儀なんですね。概念規定された言葉で論理的に喋るということは、察しを不必要としているわけですから、相手と切れていることを前提としているわけで、これはいわば双数的世界では他人行儀であり、失礼なことなんじゃないですかね--母子関係の中で人人がしどろもどろに喋るのは、いわば内的必然に支えられているわけですよ
(佐々木孝次+伊丹十三『快の打ち出の小槌 [日本人の精神分析講義]』朝日出版社)
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母子関係=双数的関係:「父」つまり原理的なものが介在しない相互依存的、癒着的関係。

なお、この本が出版されたのは1980年、伊丹47歳の時。
伊丹によるとそのほんの数年前まで、彼は、しどろもどろにしか喋れなかったと言う。
彼が「概念規定された言葉で論理的に喋る」ことができるようになったのは、岸田秀の『ものぐさ精神分析』(1977)中の「私の原点」を読んで、「母親」の欺瞞性に気付つくことができ、それによって母子関係、双数的関係から解放されたからだと述べている。

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それまでは喋れないだけじゃなくて、書いてあるものを声を出して読む時にすらつっかえちゃうんですね、神経症的につまづくんです。まるで暗闇の部屋を手探りで歩いているような具合なんですね、突然壁にぶつかったり、椅子に蹴つまずいたりする--椅子や壁が言葉であり、部屋全体が世界であるとすると、僕には世界はまだ構成されておらず、言葉はただ無秩序に氾濫していたわけですね。ところが、その部屋にパッと電気がついたんです。そうして、僕ははっきり見ることができ、自由に歩き回れるようになった。つまり、双数的関係から外へ踏み出したとたん、いわば、自分の中にはっきり自分がいて、そいつが自分の中から手を伸ばして世界をつかみとっている、ということが実感として出てきまして、その時僕は初めて言葉というのを持った、というか言葉が自分のものであるという感覚を持ったわけです。その時から僕は言葉が喋れるようになった。内容の程度はともかく、概念規定された言葉を使って喋れるようになった。それまでは非常に曖昧な、支離滅裂なことを喋っていたと思いますね。そしてこれは日本ではむしろ一般的なことなんですね。
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(この続きが最初の引用箇所です。)