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2010-08-05 23:13:07

PTAが「新しい公共」になぜつながるのか(その1) 長官の発言

テーマ:PTAと「新しい公共」
「新しい公共」宣言における「別添資料」の中に次の一節がある。

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◇PTAの活性化によるコミュニティ・スクールへの道
PTAを活性化するため、役員の過重な事務負担をサポートするNPOを設置するか既存の地域組織に委託する。行政が委託事業予算や教育一括給付金から予算を支援し、行政の監査委員会を設置してガバナンスをチェックする。PTAに誰も参加しやすくなり、結果として保護者世代の社会参画が促進され、地域社会の担い手が育成される。また、全国の公立学校をコミュニティ・スクールへと発展させていく。(「(別添)「新しい公共」の具体的なイメージ」)
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PTAが「新しい公共」と結びつけられている。

ところが、「新しい公共」円卓会議の議事録を丹念に追ってみても、PTAについての本格的な議論は見当たらない。
強いてあげれば、松井孝治官房副長官(当時)が紹介している奥方の話がある(第1回会議議事録p.19)。

**(引用)**
(松井官房副長官)
 3つ目は、自分の地元で、居場所と出番ということがありますが、うちの女房は専業主婦でありました。勿論、居場所はあります。趣味もあります。友達もあります。子どもができて、子どもをさっきのかまど金の小学校、今は御所南という小学校に預けて、そこでいわゆるPTA、今はコミュニティ・スクールなのでコミュニティですね、学校運営協議会の委員をやらせていただきました。
 今まで学校を見ていた女房の目が変わりました。要するに学校の悪口を言うのではなくて、自分たちが参加したときにどうなるのか、何を自分たちは貢献していけるのかという姿を見ることができました。女房は、そこで出番を見出したと思います。
 その実体験があって、私は教育のサービスの現場であっても、あるいは私たちも今もそうですが、霞が関とか永田町で政策をつくる現場であっても、やはりいろんな人が当事者意識を持って、社会の知恵を集めて、みんなが汗をかいてやるということが非常にすばらしいなというふうに実感しています。
 (中略)やはり大事なことは、多くの人が当事者意識を持って、自分たちが勝手に被害者であるとか、一方的な受益者ということではなくて、そこに当事者意識を持って参画していくということを、どうやってこの世の中で形成していくかということだと思います。
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↑の松井氏の発言は、なぜPTA・コミュニティスクール的なものが「新しい公共」にとって必要かについて円卓会議が語ったことの、ほぼすべてであると言っていい・・。

学校運営協議会委員をやったら奥方の学校に対するスタンスが別ものになったとのことであるが、その変化が一般的・普遍的ななものであるならば、それこそ五万どころか何十万、いや何百万といるPTA役員にも劇的な変化が見られていいはずだが・・。また、長官の奥方のようにいい意味で別人になった人もいるかもしれないが、心身を痛みつけられて別人になった人はいないと言うのだろうか?
そのあたりのPTA的なものの抱える問題(負の側面)についての考察は、松井氏の議論には全く現れない。

PTAの負の側面もにらみつつ、それでもやはりPTAは必要であり、「新しい公共」の実現に欠かせないという議論を展開するのが、神奈川の県立高校のPTA会長を務める鈴木氏だ(氏は市P連会長、日P常任理事を歴任されている)。

氏は円卓会議の委員ではないが、内閣府講堂で4月25日に行われた「新しい公共」フォーラム(鳩山総理も松井長官も出席)で提言されている。
以下の記事で、氏の議論の論点を検討してみたい。





1 ■新しい公共
新しい公共議論・極めて官僚的な発想だなと思います。

大企業に務めた経験のある方なら、殆どの人が通るであろう人事制度、その構造は相当エグイ事しないと上に上がれない仕組みになっていると、もっぱらの評判です。学閥しかり人間関係しかり、人が人を評価するのですから、そうなります。その為に、鬱病の人が社会にあふれてしまった。

家庭には様々な事情がある人が多い、介護であるとか病気であるとか、核家族であるとか、シングルであるとか、そこを切り捨てて新しい公共は成り立たないだろうと思います。

まして高齢化社会と不景気から来る貧困は目の前、その状態での助けあいは、戦後の純真な日本人的な価値観と違い、民主主義がある程度浸透した後の貧困、陰での足の引っ張り合いは激化すると思います。ましてや女子高生化してしまったPTAが母体など、人権が侵害されること間違いない。彼女はP本部と国から、PTA脳として洗脳されているのですから、竹やりで戦争に勝てると思ってる頃の思想をフツフツと感じます。

新しい公共に力を入れるよりも、多くの児童・生徒がある程度、PTAに頼ることなく平等に(塾など行かなくても良いような)制度と育成人員に力を入れる方が先決のように思うのですが、無理な話しなのでしょうか。子供にも個人差がありますものね。

高校の時、貧困の為、進学をあきらめた友人が居ました。飲サーで騒ぐ友人を片目に見て、友人は親の為に働いていた。世の中平等では無いと言うことを痛感したのを覚えています。

新しい公共は、様々な問題を孕んでいそうです。
流れ的に弱者を切り捨てる制度にだけはなって欲しくない。公共と言うからには、下を救う制度であって欲しいと願っています。

2 ■Re:新しい公共
>OTさん
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新しい公共は、様々な問題を孕んでいそうです。
流れ的に弱者を切り捨てる制度にだけはなって欲しくない。公共と言うからには、下を救う制度であって欲しいと願っています。
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おっしゃる懸念、よくわかります。
PTAの惨状を見てきた者としては、PTA問題の点の解決なくして、安易に「助け合い」を求めることは、結局、弱者をさらに追い込むことになりかねないように思います。