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2010-08-05 23:59:43

PTAが「新しい公共」になぜつながるのか(その3) PTAから自立する親は「裏切り者」なのか

テーマ:PTAと「新しい公共」
鈴木氏の発言を要約すると、以下のような論点が認められる。

①PTAの活性化は、「新しい公共」の実現そのものだと感じている。

②すばらしい可能性のあるPTAがなぜ不人気なのか。それは組織が自立していないからだ。(行政やP連から)やらされ感のある中の活動では、やりがいや誇りは生まれてこない。単位PTAが自主性を持つことが必要だ。

③PTAは地域によって大きく違うので、共通の活動とともに、自分たちの地域性を考えた独自の活動も必要。

④PTAは同じ悩みを抱える子育て真っ最中の親の孤独感を取り払い、安心感を得ることができるための欠かせないツールとなっている。

⑤PTAには以前から任意参加の問題がある。任意参加だとPTAへ入る人は少なく、強制しないとつぶれてしまうのではと心配する人がいる。しかし、私は恐れることはないと感じている。なぜなら、日本の親を信頼しているからだ。親を教師が、教師を親が、国民が政治家を、政治家が国民を信頼することが大切なように。

⑥困難はあっても、一緒に解決に向けて力をあわせていくこと、大変だけど、やりがいのある、同じ時間を共有することによって自立した活動が生まれてくるのだ。

⑦「新しい公共」が実現する社会を大人から子どもたちへの贈り物としたい。


鈴木氏は、「自立」、「自主性」ということを強調される(②③)。やらされ感のある活動ではやりがいや誇りは生まれないと。独自の活動が必要だと。
しかし、鈴木氏にあっては、その「自主」、「自立」の【単位】は、個人ではなく、組織なのだ。
小組織が大組織に対して、自主、自立を主張している。

しかし、言いたい。
「やらされ感のある活動ではやりがいや誇りが持てない」のは、個人も同じですよと!
個人の自主性、個人の自立に立脚してこそ、「新しい公共」を切り拓けるのではと。
(まるお注:円卓会議の委員の中にも、この方向での問題意識を持っている人はいる。佐野章二委員、寺脇研委員、平田オリザ内閣官房参与。ただ、残念ながら「宣言」には生かされていない。各委員の具体的発言については、後ほど補足する予定。)

個人の自立を軽んじ、小集団の「自立」を重視する姿勢は、「新しい」どころか、いたって「古い」発想ではないだろうか。このような集団のあり方は、いじめ学者の内藤朝雄氏が「中間集団全体主義」と呼び、いじめの大きな要因の一つとしていることをご存じだろうか。


そして、⑤。
確か、鈴木氏は、2.11の横浜でのPTAシンポでは、任意加入の周知に対してはっきりと消極的なスタンスを示しておられた。その点、2か月の間に「進歩」されたとも言えるのだが、「私は保護者を信頼しているから心配していない」というのは、聞き捨てならない。

では、PTAが任意であることを知って、PTAとは別の道を歩むことにした保護者は、「信頼を裏切った」ことになるのだろうか。

⑥でも、「一緒に力を合わせる」、「同じ時間を共有する」ということを強調されているが、学校主催の保護者会に参加する等のミニマムな活動に関しては「全員参加」を前提にしていいと思うが、それ以上の活動については、個人の判断を尊重してほしい。

デモクラシーの単位は、個人なのだから。


正直に言う。
私は、鈴木氏のように、何が必要で、何が大切なことなのか、個人の判断が尊重されるべきことなのに、そこは不問に付して、
「とにかく一緒に活動しましよう、同じ時間を共有しましょう。強制はしません。でも、信頼していますよ。」
というスタンスは、怖いと思う。


なお、前記事で、鈴木氏の発言を受けての金子座長の発言もあわせて引用しているが、

**(引用)**
信頼というのはなかなかつくれないのですけれども、物は使ってしまうとなくなりますね。信頼は使えば使うほど増えるという性質もあるので、これからも頑張ってやっていただきたいと思います。
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との座長発言は、円卓会議(の座長)に、日本的な組織の負の側面に対する問題意識が稀薄であることを物語っているのではないだろうか。