2011-02-26 22:37:01
「だから」の「情意表出的用法」とは
テーマ:「だから」の情意表出的用法成立の背景
<論理構成的用法と情意表出的用法>
「だから」について国語辞典の類を見ると、次の(1)(2)のような例があげられ、「原因・理由を受けて、帰結を導く」といった説明がなされている。
(1)ストレート果汁100%。だから、おいしさが違います。
(2)やるだけのことはやった。だから、だめでも悔いはない。
このような「だから」は、前件と後件の論理関係(因果的関係)を表しているという意味で、「論理構成的用法」と呼ぶことができる。
「国語」の時間に教えられるのも、ふつうこの「だから」である。
いっぽう、会話で用いられる「だから」を観察すると、次の例のように、因果的関係を表しているとは言い難い用法がある。
(3)
「今日のご飯、なに?」
「だから、カレーよ。今朝、言ったでしょ。」
(4)
「どんなアニメ、見てる?」
「『アニメ』って、なんですか?」
「え、お前、『アニメ』、知らないの? だから、たとえば日曜日にやってる「サザエさん」とかあるでしょ。ああいうのだよ。」
(5)
二人は、とんかつ屋に入って行った。
「いらっしゃい。」
カウンターの中の親父さんらしい男が笑顔でいった。(…)そして、西部も、
「今晩は。」
と、親しげにいって、稲美を促してカウンターの空席に並んで腰を降した。
「とんかつ。それにビールを。」
「かしこまりました。」
「親父さん。このお嬢さんは、ぼくの会社の加古稲美さんだよ。」
「そうですか。どうぞよろしく。」
いっておいて親父さんは、
「西部さんもいよいよ身を固める気になりましたね。」
と、まるで呑み込んだようにいった。
「何んのことだ。」
西部広志は、親父さんのいうことがよく呑み込めぬようにいった。西部にさえわからぬことだから稲美にもわかりようがなかった。しかし、親父さんは、
「西部さん、なかなかいいじゃアりませんか。」
と、もう一度、ちらっと稲美の方を見て、一人合点しているのである。
「いいって?」
西部は聞き返した。
「そんなに白っぱくれなくてもいいでしょう。西部さん、お互い永い付き合いじゃアありませんか。それともあんた、てれているんですか。」
「僕は、てれてなんかいないつもりだが。」
「要するにこのお嬢さんのことですよ。」
「この人がどうしたというのだ。」
「だから、なかなかいいと、といっているんですよ。」
「そうかなア。」
(源氏鶏太『東京物語』1967年)
(3)(4)(5)のような「だから」は、“自分が述べようとしていることは、もうすでに述べたこと、あるいは、常識的に了解されているはずのことだから、理解されて(いて)当然だ”という気分を表していると考えられる。
このような「だから」をその表している意味に注目し、「情意表出的用法」と呼ぶことにしたい。
(3)と(5)は、「もうすでに述べたこと」として相手の受け入れを求めている例、(5)は、「そんなのは常識だ」として相手の受け入れを求めている例である。
いずれにしても、「情意表出的用法」は、後続発言を通じていいはずのものとして提示しようとする話者の情意(「権利としての受け入れ要請意識」)を表わしていると考えられる。
<論理構成的用法と情意表出的用法の見分け方>
論理構成的用法と情意表出的用法の簡単な見分け方がある。因果的関係を表す接続助詞の「~から」を使って置き換えられるかどうかを見るのである。次に見るように、置き換えが可能であれば論理構成的用法であり、置き換えが不可能ならば情意表出的用法と考えられる。
論理構成的用法である例文(1)と(2)は、次のように接続助詞「~から」によって言い換えが可能である。
(1)´ストレート果汁100%だから、おいしさが違います。
(2)´やるだけのことはやったから、だめでも悔いはない。
いっぽう、例文(3)(4)(5)の情意表出的用法の場合、そのような置き換えは不可能か、困難である。
例文(5)のとんかつ屋のおやじさんの会話について見てみると、「だから」に先行する発言はあるが(下線を付した)、それらは「だから」に後続する発言(「なかなかいいと、いっている」)の原因・理由ではないことに注意しておきたい。
(5)において下線を付した「だから」に先行している発言と、「だから」に後続する発言を接続助詞「~から」で結ぶことはできない。
それは、その前後が因果的関係にはないからである。
本来(あるいは「一方で」と言う方が正確かもしれない)因果的関係を表す接続詞が、なにゆえに、「権利としての受け入れ要請意識」(“自分の言っていることは伝わっていいはず”といった情意)を表すようになるのだろうか?
次回以降、その点につき考えていきたい。
「だから」について国語辞典の類を見ると、次の(1)(2)のような例があげられ、「原因・理由を受けて、帰結を導く」といった説明がなされている。
(1)ストレート果汁100%。だから、おいしさが違います。
(2)やるだけのことはやった。だから、だめでも悔いはない。
このような「だから」は、前件と後件の論理関係(因果的関係)を表しているという意味で、「論理構成的用法」と呼ぶことができる。
「国語」の時間に教えられるのも、ふつうこの「だから」である。
いっぽう、会話で用いられる「だから」を観察すると、次の例のように、因果的関係を表しているとは言い難い用法がある。
(3)
「今日のご飯、なに?」
「だから、カレーよ。今朝、言ったでしょ。」
(4)
「どんなアニメ、見てる?」
「『アニメ』って、なんですか?」
「え、お前、『アニメ』、知らないの? だから、たとえば日曜日にやってる「サザエさん」とかあるでしょ。ああいうのだよ。」
(5)
二人は、とんかつ屋に入って行った。
「いらっしゃい。」
カウンターの中の親父さんらしい男が笑顔でいった。(…)そして、西部も、
「今晩は。」
と、親しげにいって、稲美を促してカウンターの空席に並んで腰を降した。
「とんかつ。それにビールを。」
「かしこまりました。」
「親父さん。このお嬢さんは、ぼくの会社の加古稲美さんだよ。」
「そうですか。どうぞよろしく。」
いっておいて親父さんは、
「西部さんもいよいよ身を固める気になりましたね。」
と、まるで呑み込んだようにいった。
「何んのことだ。」
西部広志は、親父さんのいうことがよく呑み込めぬようにいった。西部にさえわからぬことだから稲美にもわかりようがなかった。しかし、親父さんは、
「西部さん、なかなかいいじゃアりませんか。」
と、もう一度、ちらっと稲美の方を見て、一人合点しているのである。
「いいって?」
西部は聞き返した。
「そんなに白っぱくれなくてもいいでしょう。西部さん、お互い永い付き合いじゃアありませんか。それともあんた、てれているんですか。」
「僕は、てれてなんかいないつもりだが。」
「要するにこのお嬢さんのことですよ。」
「この人がどうしたというのだ。」
「だから、なかなかいいと、といっているんですよ。」
「そうかなア。」
(源氏鶏太『東京物語』1967年)
(3)(4)(5)のような「だから」は、“自分が述べようとしていることは、もうすでに述べたこと、あるいは、常識的に了解されているはずのことだから、理解されて(いて)当然だ”という気分を表していると考えられる。
このような「だから」をその表している意味に注目し、「情意表出的用法」と呼ぶことにしたい。
(3)と(5)は、「もうすでに述べたこと」として相手の受け入れを求めている例、(5)は、「そんなのは常識だ」として相手の受け入れを求めている例である。
いずれにしても、「情意表出的用法」は、後続発言を通じていいはずのものとして提示しようとする話者の情意(「権利としての受け入れ要請意識」)を表わしていると考えられる。
<論理構成的用法と情意表出的用法の見分け方>
論理構成的用法と情意表出的用法の簡単な見分け方がある。因果的関係を表す接続助詞の「~から」を使って置き換えられるかどうかを見るのである。次に見るように、置き換えが可能であれば論理構成的用法であり、置き換えが不可能ならば情意表出的用法と考えられる。
論理構成的用法である例文(1)と(2)は、次のように接続助詞「~から」によって言い換えが可能である。
(1)´ストレート果汁100%だから、おいしさが違います。
(2)´やるだけのことはやったから、だめでも悔いはない。
いっぽう、例文(3)(4)(5)の情意表出的用法の場合、そのような置き換えは不可能か、困難である。
例文(5)のとんかつ屋のおやじさんの会話について見てみると、「だから」に先行する発言はあるが(下線を付した)、それらは「だから」に後続する発言(「なかなかいいと、いっている」)の原因・理由ではないことに注意しておきたい。
(5)において下線を付した「だから」に先行している発言と、「だから」に後続する発言を接続助詞「~から」で結ぶことはできない。
それは、その前後が因果的関係にはないからである。
本来(あるいは「一方で」と言う方が正確かもしれない)因果的関係を表す接続詞が、なにゆえに、「権利としての受け入れ要請意識」(“自分の言っていることは伝わっていいはず”といった情意)を表すようになるのだろうか?
次回以降、その点につき考えていきたい。