<142> #2

2010-07-22 20:08:49

「PTAの活性化によるコミュニティ・スクールへの道」に対する疑問

テーマ:PTAと「新しい公共」
いつもにも増して荒削りな話になると思いますが、勝手ながら、思いを吐き出しつつ、自ら考え、ご意見をいただき考えし、この問題につきまとめていければと思っています。

PTAは「新しい公共」を切り拓けるか
大人の元気が子どもの元気!


というフォーラムが、近く(8/7)開かれます。

趣旨は以下のようです。
*****
かねてより、PTAは学校・家庭・地域の接点として、学校教育、地域の活性化に大きな役割を期待されてきました。
今回、政府より「新しい公共」が宣言され、「PTAの活性化によるコミュニティ・スクール(「学校運営協議会」制度)への道」が提唱されました。保護者や生徒だけではなく、地域住民が参画し、学校運営から教職員の人事にまで意見を述べることが可能なコミュニティ・スクールを日本各地で導入、発展させていくために、PTAはさらに大きな役割を担うことが期待されています。一方、PTA活動に参加しにくい保護者、役員の選出など組織維持に苦労するPTAも少なくありません。そんな中、PTAが「新しい公共」をみずから体現し、地域とともに子どもの育ちと学びによりそう豊かなコミュニティを培うためには何が必要でしょうか。PTAが秘めた大きな可能性を引き出すための方策は?教職員にとっての望ましいPTAのあり方は?
「新しい公共」の地平を切り拓くPTA像を議論します。
*****

なお、↑の文書で、「今回、政府より提唱された」とされているのは、第8 回「新しい公共」円卓会議資料として6月4日に出された、

「『新しい公共』宣言」

の中での提言のことです。

その提言とは ―
***
◇PTAの活性化によるコミュニティ・スクールへの道
PTAを活性化するため、役員の過重な事務負担をサポートするNPOを設置するか既存の地域組織に委託する。行政が委託事業予算や教育一括給付金から予算を支援し、行政の監査委員会を設置してガバナンスをチェックする。PTAに誰も参加しやすくなり、結果として保護者世代の社会参画が促進され、地域社会の担い手が育成される。また、全国の公立学校をコミュニティ・スクールへと発展させていく。
***
(ただし、上記文言は、「宣言」本文ではなく、「(別添)「新しい公共」の具体的なイメージ」の中にある。)


直観的なもの言いを許していただくなら、もういろんな点で、「???」なのですよ。

カワバタさんもパネリストになっていて(というか今回のフォーラムの中核メンバーです)、PTA問題そのものや、またPTAを「新しい公共」なるものに結びつけることへの懸念についても縷々語ってくれるはずです。
(参照:<「新しい公共+地域社会+PTA」の三題噺でシンポジウムを開く件>)

当方も、ある場所で「疑問が渦巻いている」と息巻いておりましたら^^;、フォーラムでの「指定発言者」に指名されました。
言いたいことを整理整頓し、しっかりと発言してきたいと思っています。


<PTAの活性化?>
それにしても、「PTAの活性化によるコミュニティ・スクール(「学校運営協議会」制度)への道」って、なんなのでしょう?
(コミュニティースクール自体もいろいろ問題があると思っていますが、その点は次回以降に譲るとしまして)コミュニティースクールを下支えする役割なんて背負わされたら、PTAの任意性はますます無視される方向に進むように思えてならないのです。

確かに、『宣言』では、PTAの過重な負担を軽減するためにNPOをこしらえて支援するとか、 予算を付けるとか言われています。
それが先方の解答なのかもしれませんが、なんかぜんぜん的を外しているように思うのですよね。

「なんでそこまでして、PTAの存続にこだわるの?」
です。
私の頭が悪いのか、どうにものみ込めないのですよ。

事務負担を軽減し、予算も支援する。
ぱっと見、ありがたい話のようにも見えます。
しかし、そもそも、政府は、PTAにいったい何を期待しているのでしょうか?

「お金が足りないので寄付してほしい。」
「人手が足りないので手伝ってほしい。」
という要請のほうが、よっぽど分かりやすいです。

事務負担の軽減も、予算の支援もいらないから、まずは、一人ひとりの保護者を自由にしてくれと言いたいです。
そうすることで、もしも、回らなくなる学校が出てくるとしたら、ちゃんと学校が回るように手当てすべきです。それは、政府の仕事です。


<「新しい公共」?>
「新しい公共」とのことですけれど、いったいどこがどう「新しく」なるのか?
こと住民参加の部分で言えば、「新しい」どころか、「古き良き時代」への回帰のような気がしてならないのですよね。
で、その「古き良き時代」って、とんとんとんからりの隣組や五人組の時代と背中合わせじゃありません?

そもそもの話、いま提唱されている「新体制」においては、PTAに入会しない保護者は、「新しい公共」からはじき出されることになりませんか?

新しい公共>コミュニティースクール>PTA>保護者個人

という「タテ」のラインの中で、PTAに入会しない保護者個人の居場所はあるのでしょうか?


今回の提言は、労力とお金の工面をしてでも、国民がこのタテのラインの外に出ていくことを食い止めようとするものなのでは、と私は疑っています。

政府(公)があり、国民(私)がいる。
公と私がいがみ合うのではなく、協力してこの国を盛り立てていく。
このことに何の異存もありません。
しかし、公と私の間に、公でもなければ私でもない、訳のわからない「中間集団」をつくり、その中に「私」を根こそぎ収めようとする・・。
こんなのは、民主主義じゃありませんぜ。どう考えても。
いじめ学者の内藤朝雄氏の言う「中間集団全体主義」です。


官僚組織じゃないのですから、基本的には保護者個人は学校当局とひとりひとり向き合えばいいと思うのですよね。
なぜそれを予算を付け、そのためのNPOを設立してまで束ねたがるのか?

なんか、今回の話は、わたしがPTAの背後に感じていた、日本の全体主義的な体質が面と向かって迫ってくるような感じさえしているのです。
大げさなと言われるかもしれませんが。

ついさきほど、『宣言』だけではと思い、「新しい公共」円卓会議の議事録を見てきました。
そうしたら、円卓会議では、

地域活動については、義務化しなければ誰も参加しようとしないから、義務化すべきだ

などという恐ろしい提言が出され、さらに恐ろしいことに、各委員からは何の異論も出ていないのですよね。(第6回円卓会議での横石知二委員の発言参照のこと。)

具体的には、こんなことを言っているのです。

**引用**
では、これを解決するのにどうしたらいいかというのが、この下側にあるように、自治会活動を活性化させることと、地域コミュニティの組織を見直しすることと、地域コミュニティの連携をすることなんです。
(中略)
具体的な方策としては、ここに書いてあるように、指針をつくる、義務化をさせたらいいと思います。この上の中に、何か参加すること。そうしなければ地域で生きていけないんだということを義務づけるぐらいやらなかったら、なかなか参加しないという人が圧倒的に多いですから。
*******

私の予感(悪寒)は決してオーバーなものではなかったようです。

このシリーズ(=「テーマ」)では、「新しい公共」、「コミュニティースクール」、それらとPTAとのかかわりについて、つぶやいて行きたいと思います。





1 ■無題
>基本的には保護者個人は学校当局とひとり
>ひとり向き合えばいいと思うのですよね。

>私の予感(悪寒)は決してオーバーなものでは
>なかったようです。

「新しい公共」は、個人が個人の発意で自由に、
公共の益になることを考え、実行することだと
思います。だから、いつまでも「新しい」ので
あって、始めから行政に枠を付けられ、権限を
与えられ、義務化されるとしたら、国家社会主義
と全く同じになってしまいます。

2 ■Re:無題
>terakoyaohesoさん
超遅レス、失礼いたしました。

おっしゃる通りだと思います。
円卓会議の議論を追うと、NPOを支援しようといった、私などからしても結構なことだなと思うものがある反面、コミュニティースクールだ、町内会だ、PTAだというように、国家による地域住民への役職の「割り当て」という側面が認められるのですよね。
おっしゃるところの「国家社会主義」的な側面を、「新しい公共」なんぞという耳当たりのいいことばでごまかされてはいかんぞと思う今日この頃です。