<132> #13

2010-06-03 18:30:13

「恩」をめぐって(その1)

テーマ:日本人論
(一応、完成)

・恩を仇で返された
・あの人には大きな恩がある
・このご恩は一生忘れません
・恩に着ます
・ここはひとつ恩を売っておこう
・恩に着せないでよ
・あんな恩着せがましいことを言わなくてもいいのに
・彼は恩人のお子さんだから
・この恩知らずめ!
・謝恩会/謝恩セール

等々の例文を持ち出すまでもなく、日本語には「恩」という言葉がある。

この「恩」というもの。
PTA問題とも、日本語問題とも深い関係を持つと思われる。
「恩」の観念とかかわる日本語の授受表現の問題については、以前に こちら と こちら でとりあげた。


「日本人にとっての恩」についてあらためて考えはじめたのは、たぐさんのブログ「PTAのホントのところ」中の「PTA寓話『パティシエ・ナイン』」を読んだことがきっかけです。感謝いたします。
また、ある掲示板で、役員経験者の方たちが、「PTAに参加しないのは『ただ乗り』ではないのか」といった考えをずいぶん力説されていたことも、この問題を考えるきっかけになっています。


「恩」の問題を考えるには、ルース・ベネディクトによる『菊と刀』での考察が大変参考になる。
比較的最近(08.10)、新訳が「光文社古典新訳文庫」から出ている。新訳はとても読みやすいですよ。

↓は、その「光文社古典新訳文庫」版のカバーに記されている紹介。

***
第二次世界大戦中、米国戦時情報局の依頼を受け、日本人の気質や行動を研究した文化人類学者ベネディクト。日系人や滞日経験のある米国人たちの協力を得て、日本人の心理を考察し、その矛盾した行動を鋭く分析した。
ロングセラーの画期的新訳。
***


「恩」について考察されているのは、同書の中の「第5章 過去と世間に負い目がある者」と「第6章 万分の一の恩返し」。

ベネディクトは、日本人はとかく「世間のおかげ」とか「お世話になっている」といった意識を強く持つが、欧米人はそういった負い目をほとんど持つことがないと述べている。(156~157)
※(   )内は、光文社古典新訳文庫版のページ数。以下、同じ。

この、世間や相手に対する感謝の気持ち、負い目にかかわる観念が、「恩」である。

ベネディクトは、「恩」にピタリと対応する英語はないと言う。

**
「恩」に相当する英語は、義務や忠誠から親切、愛まで少なくない。しかしこれらの訳語は原語の意味からずれている。恩が本当に愛や、さらには義務までを意味するのであれば、日本人はきっと、「子どもに対する恩」という言い方をするはずである。だが、そのような使い方はできない。恩はまた、忠誠を意味しているわけではない。忠誠(loyalty)は、日本語では、ほかの単語を使って表現する。それは決して恩の同義語ではない。(158)
**

この引用箇所から、ベネディクトが「恩」とは一面で「愛」に対応し、もう一面で「義務」に対応する側面をもつものと考えていることが分かる。
しかし、「恩」はそのいずれ(「愛」・「義務」)ともずれがある、と。

うん。確かに、「子どもに対する愛情」「子どもに対する義務」とは言えるけれど、「子どもに対する恩」とは、言えませんよね!
この点については後日取り上げたいと思っているが、「恩」とは、上→下という傾斜性を含み持つ観念と言えそうだ。


「恩」は、次のように定義される。

**
「恩」とは、― その用法を逐一調べると分かることだが ― 肩の荷、すなわち返すべき借りである。要するに、全力で果たすべき責任のことなのである。(158)

恩をほどこす立場にあるのは、目上の人である。目上なのかどうかはっきりしない人、あるいは少なくとも同輩格の人から恩を受けると、落ち着かない気分、つまり劣等感にさいなまれる。(158~159)
**

以下に、<日本人にとっての「恩」>をめぐってベネディクトが述べていることを抜き書きしてみよう。


・「恩を忘れない」ということが日本の習慣において、何世紀もの間、何よりも大事にされてきた(162)

・お世話になった以上、借りはどんなことをしてでも返さなければならない。時を経ても借りが減るということはない。それは歳月とともに減るどころかむしろ増えることになる。一種の利子が積もってゆくのである。(164)

・厳然たる構造的な人間関係に縛られている場合、恩にともなって多大な借りを作ると、往々にして全力を尽くしてそれを返済しようという気持ちがつのる。(171)
(社会思想社版旧訳:一般に認められている構造化された関係においては、恩が内包する大きな債務(→負い目@まるお)は、しばしば人を刺激して、ひたすら全力を挙げて恩返しをするようにしむける。)

・つくった借りがどれほど些細なものであっても、それを不本意と思わないようでは、立派な人間とは言えない。(175)

・恩は借りである。したがって、借りた分だけ返さなければならない。(183)

※恩を受けた人が素直に「ありがとう」とは言わずに謝罪の言葉でもある「すみません」をよく使うのは、日本人にとって恩を受けるということは、相手に迷惑をかけてしまうのと同様の“心苦しさ”を伴うものだからだ(要約)。(168~169)


さて、「恩を返す」ことがなぜかくも日本人にとっては大切かつ深刻なことになるのか。
アメリカ人にとっては謎であるという。
そして、その謎は、日本人にあっては恩を受けることとは相手から借金をすることと同じことなのだ、と見たてることで、なんとか理解できるものになるとする。

***
アメリカ人にとって、日本人における恩返しの概念を理解することは難しい。とはいえ、次のことを試みるなら、理解は容易になるだろう。それは、金銭的取引との相似性を念頭に置くことである。そして、アメリカにおける資産取引と同じように、恩返しの背後にも債務不履行を防ぐ強制力が働いていると想定することである。アメリカでは、契約は必ず履行させられる。人が他人のものを奪った場合、情状酌量はしてもらえない。そのときの気分次第で銀行に債務を返済したりしなかったりすることは許されない。しかも金を借りた側は、元本のみならず利子に対しても支払いの責任を負う。(184)※太字、色付引用者。
***

日本における「恩」とは、返済の義務が厳然とある借金のようなものなのだ。
対して、アメリカでは「金銭的な基準を金銭以外の事柄に応用する習慣はない(182)」。


では、アメリカでは、他人から与えられる恵み、施しは、なぜ返済の義務を伴わないのか。

先の引用部分(184)の直後に次のように述べられている。

***
一方、愛国心や家族愛は、これらのこととはまったく別物とみなされている。わたしたちの場合、愛は心の問題である。したがって愛は、惜しみなく与えるときにこそ最上のものとなる。(184)
***

同様のことが別のところで次のようにも述べられている。

**
恩は基本的に借りがあることを意味している。一方、わたしたちは愛を、義務に縛られることなく自由に与えられるものと見なしている。(161)※一部改訳
**

さらに、第5章「過去と世間に負い目のあるもの」は、次のようなことばで結ばれている。

**
愛や親切、寛大さなどは、無償であればあるほどありがたいものだ。わたしたちはそう感じる。ところが日本では、それらのものはヒモ付きにならないわけにはいかない。一挙手一投足に貸し借りの勘定がついて回るのである。日本語には、次のような言い回しがある。「恩を受けるには生まれつき(途方もなく)のん気であることが必要だ」。(182)
**


無償の愛、無償の施し と ヒモ付きのそれ。


ベネディクトは、ボランティアというものと日本の文化との相性の悪さを、すでに50年以上前に指摘していることになる。
その指摘の正しさは、PTAの「惨状」が実証していると言えるだろう。

「ただ乗り」とか「お世話になっているのに」などという罵倒は、愛や施しが「ヒモ付き」ものであればこそ出てくる発想である。


では、われわれはどうすればいいのか。
月並みだが、まずはおのれの姿を直視するところから始める以外にはないのではないだろうか。

そして、次に、契約とは? 人権とは? 法とは? 真の社会とは? と問うていくべきかと。

惨状の源は、PTA狂信者、一部の心ない輩にあるというよりも、日本の文化というか、われわれの心根の中に探られる必要があると思うのだ。

(つづく)





1 ■のんき者の告白
とても興味深く拝読しました。
 私はきっと“生まれつき(途方もなく)のん気である”人なのだなぁという感慨を覚えました。自分程度の分際で『返さなきゃ』と思うのはオコガマシイのではないか、という気分もあったりするのは、単に自分に言い訳しているのでしょうか!?

 そんな私は、日本史での“御恩と奉公”という言葉に違和感を持ちました。文字通り、恩着せがましいなぁと(笑)。

 それと、『母は娘の人生を支配する―なぜ「母殺し」は難しいのか』斉藤環(著)という本で、“マゾヒスティック・コントロール”という言葉を初めて見て、母・娘ともに自覚しているか無自覚なのかは分らないですが、“母の恩に応えようとしてしまう娘”という図式に、私もPTAを連想してしまったことを告白いたします。http://ameblo.jp/yodandesu/day-20090412.html


2 ■恩を感じる人と感じない人と
まるお様
「恩」という側面、考え込んでしまいました。
ヒモ付きの愛情か~・・・ああ、イヤです~(^^;;

私にとってPTAは「ちょっとウザイ」くらいの感じでして、ただ乗りと言われても、「それが何か?」という程度なのですが(=どう罵倒されても、嫌いなことは全くやる気無し) それって、私が「恩」というものを考えない人間だからなのだなーと(勝手に)納得してしまいました。「恩」を重要視する人にとったら、「ただ乗り」は許されないのでしょうね。それも大いに納得です。

「恩」を重要視する人と、私のように無頓着な人間と、どこで差が付いたのでしょう・・・生まれ育った環境なのか、地域によるものなのか、勤め先のカルチャーの違いなのか・・・(私がかつて働いていた職場は外資系だったので、そこでドライな価値観が叩き込まれたかもしれない、と今になって思います)

3 ■Re:のんき者の告白
>とまてさん
PTAを突き放して見られるためには、ふつうの日本人からどこか“ずれている”必要があるのかもしれません。
わたしもこの点に関して【は】、まったく負ける気がしません^^;。

御恩と奉公。
これはぜひ取り上げたいテーマです。
ご指摘ありがとうございます。
以前に敬語論で取り上げた、「庇護と被庇護(→服従)の親分・子分関係」の源ではないかと思っています。
http://ameblo.jp/maruo-jp/entry-10502576711.html

“マゾヒスティック・コントロール”の話もとても勉強になります。

ところで、
>“母の恩に応えようとしてしまう娘”という図式に、私もPTAを連想してしまったことを告白いたします。

この場合の「母」とは、先輩の保護者? 学校? その両者? あるいはまた別のものですか?

コメント、ありがとうございます!

4 ■Re:恩を感じる人と感じない人と
>TRKさん
>ヒモ付きの愛情か~・・・ああ、イヤです~(^^;;
この新訳の表現にはビビビッと来ました(笑)。
ちなみに、旧訳では、「附属物がくっついた」てな表現でした…。

>「恩」を重要視する人と、私のように無頓着な人間と、どこで差が付いたのでしょう・・・

興味深い問題提起、ありがとうございます。
生育環境、勤め先も、大いに関係ありそうですね。
とまてさんのお話にもあったように、親子関係(母娘関係)もとても大きいような気がします。

ひとつ私が感じているのは、いちがいには言えないとは思いますが、「恩返し」にこだわる人は、「特別扱い」をどこかで期待しているところがあるのではないのかということです。

つまり、自立している人は、「恩」にあまりこだわらないのではないかと。

引き続き、考えていきたいと思います。
コメント、ありがとうございます!

5 ■マゾヒスティックコントロールの主体
>まるおさん
「あの人は好きでやっていると言われると腹が立つ」という言葉が、引っかかっているのです。
 それで、「頑張っている私は当然感謝される筈」という気持ちが裏切られたような感じがしているのかな、と連想が働きました。
 考えてみれば、PTA活動には分りやすい報酬が無いので、そういう気持ちはゼロじゃないかもしれないですよね。ひょっとすると家事なんかも?

「あの人は好きでやっている」なんていうことを態々言ってしまうのも、過剰な裏返しの反応なのかもしれないですし。

 いずれにせよ、双方が、もう少し冷静になって、自分がそういう事を言いたい理由を分析してみることをしないと、歪みは温存されてしまいそうに思います。

ボンヤリした思いつきで済みませんm(__)m


6 ■いろいろ考えさせられます
示唆に富む御記事を拝読して、連想したのは
日本の「ご恩と奉公」に対する
西欧の”Give and take”の差でしょうか。
受け取る方も、差し出す方も、両者対等、気にすることないよ、って考えで、ものが気に入らなければ、断ることだって出来るはずですよね。

うろ覚えですみませんが、仏教の「お布施」にも"Give"と似た考えがあって、見返りは期待しないのだとか。そして、ここがうろ覚えなのですけれど、「お布施」にはいろいろあって、受け取る方も入っていたような気がするのです。


7 ■自己肯定を自分でできるかどうか
こんにちは。
いつもありがとうございます。

すこし、個人的な見解を書かせていただきます。


PTAに対して、ある程度の適切な距離をおいた態度をとれるかどうかは、自尊心や自立力といった「無条件の愛」を自分に対して持っているかどうかにかかっているのではないか?

という見解です。


自立した人間、幸せな人間の条件というものは、自己肯定を自分でどれだけできるかにかかっていると感じています。

自分で自己肯定ができる(他人に自己肯定を依存しない)・・・「存在に対する自信」(自尊心・自己重要感)の概念が大事なのではないでしょうか。

自信には、「能力に対する自信」と「存在に対する自信」があるようです。

自分の能力に対する自信も、無いよりかは、有ったほうがいいのですが、それだけでは危ういのです。
それは、条件付のものだからです。
「○○だから、私はすばらしいのだ」という、条件があってこその自信です。その条件がくずれると、自分に対して「無価値」という評価を与えることになります。能力に対する自信だけでは、安定性がなく、本質的に「安心」できないようです。


8 ■自己肯定を自分でできるかどうか つづき
一方、「存在に対する自信」とは、無条件の愛です。
失敗しようが成功しようが、全部ふくめて、「自分は素晴らしい」という自己肯定です。「あるがまま」です。
「無条件」の愛は、とても安定しています。この「存在に対する自信」がある程度あって、はじめて、人間は「安心」でき、本質的な意味で「幸せ」になれるのだと思います。


このような「無条件の愛」≒「存在に対する自信」「自尊心」が、自立および安心、幸せ感に直結しているように感じるのです。

一方で、「条件付の愛」≒「恩」で、ものを考えることに慣らされていると、自立・安心・幸せにほど遠くなるように感じるのです。
なぜなら、条件付なので、条件を満たさないと、自己肯定できないのです。その条件とは、、、多くの場合「他人に認めてもらうこと」でしょう。
自己肯定を、他人に依存してしまっているのですね。

自己肯定を、他人に依存することなく、自分でできる人が、自立している人なのではないか?

そのように感じています。



まったくの個人的な考えで、申し訳ありません。

しかし、このような心理分析には、とても興味があり、頻繁に考察を重ねています。


心理分析というより、私の場合は「スピリチュアル」分野の観点にもとづいた見解かもしれません。

ともあれ、ありがとうございました。


長文失礼いたしました。

9 ■深~いコメント、ありがとうございます。
みなさま
深~いコメント、ありがとうございます。
とっても参考になります。

現在、いただいたコメントも踏まえさせていただいて、つづきの記事を作成中です。
そちらが済みましたら(今日中に終了予定)、改めて個別にレスをさせていただきたいと思っております<(_ _)>。

またまたの突っ込み等、楽しみにしております。

10 ■書き直し~
昨日わたしが書いたコメントですが、、、
あまり練った文章でなかったため、すごく乱文ですね。
何が言いたいか、よくわからない文です。(^-^;)
ゴメンナサイ~。

もうちょっと言いたいことまとめられましたので、改めて書かせていただきます。あくまで個人的な考えなのですが、、、

人間というのは、人種、性別、信条、能力を問わず、全ての人が尊く、あるがままで価値がある存在だと思います。(「人権」の考え方と似てますね。)

自分の尊い価値を、自分で気づいてる人と、気づいてない人がいるんです。

自分の価値に気づいている人は、自分で自分に「私はあるがままで素晴らしい存在だ」と認めることができます。他人の了承を得る必要がなく、精神的に自立しています。

自分の価値に気づいてない人は、「自分はあまり価値が無い」と感じていることになります。あまり、自分のことが好きではないし、どこか被害者意識もあります。自分で自分を価値ある存在だと認めてあげられないので、他人に「価値ある存在だ」と認めてもらおうとする傾向が強いのです。他人の了承を必要とし、精神的に他人に依存しています。
「ミンナ主義」「恩返し」などは一種の権威です。そのような「一般的に他人に認めてもらえる条件」にすがるということになります。他人の承諾を得るような条件を満たすことでのみ、自分の価値を認められないのではないか…。だから、それに逆らうことなど、断じて考えられないのではないか…。そのように感じることが多々あります。

PTAの問題は、こういう一人一人の「無条件の自己肯定感の欠如」にあるのではないかな~なんて考えているのです。

ですから、解決策としては、自分の自己肯定感を上げ、他人の自己肯定感を上げてあげれるような愛のある言葉かけや行動をとっていくというのがいいのではないでしょうか。「自分に優しく、他人に優しく」を地道に実践していくのがいいのではないかと考えています。


しかし、なんだかんだ言いますが、日本人のことは大好きです。

11 ■Re:マゾヒスティックコントロールの主体
>とまてさん
超遅レス、失礼いたしました。

マゾヒスティックコントロールの主体、了解できました。ありがとうございます。

>いずれにせよ、双方が、もう少し冷静になって、自分がそういう事を言いたい理由を分析してみることをしないと、歪みは温存されてしまいそうに思います。

おっしゃるとおりですね。

ところで、「あの人は好きでやっていると言われると腹が立つ」という言葉は、確かにホントによく聞く言葉ですよね。
で、その背景には、おっしゃる通り、そのことによって恩を着せて相手をコントロールしてやろうとする意図があるように思いますが、もうひとつの背景には、やらなくてはならない「おつとめ」としてやっているということもあるように思いますが、どう思われますか?

12 ■Re:いろいろ考えさせられます
>猫紫紺さん
超遅レス、失礼いたしました。
恩コメント、(その2)をまとめるきっかけをいただけたように思います。ありがとうございます。

日本における「やりもらい」は、二者間に内閉する傾向を色濃く持ち、親分・子分の関係に深くかかわり、ときに下位者には非常に重苦しいものになると言えるように思います。
対して、西欧等においては、「やりもらい」が、社会に対して開かれている。<社会>の形成に深くかかわっている。だから、個人を追い詰めない。

「お布施」のこと、今度調べてみたいと思います。
FJNさんがとてもお詳しそうですが、ヒモ付きの施しとは、遠いもののように思いますね。

今回も御ブログにて拙エントリをご紹介くださり、ありがとうございます。

13 ■Re:自己肯定を自分でできるかどうか
>たぐさん
超遅レス、失礼いたしました。

初めのコメントも、いつもながらとてもわかりやすかったですよ。
私は御コメントを読ませていただき、ベネディクトの「罪の文化と恥の文化」のことを思いました。たぐさんは「恥の文化」の問題性を指摘されているのだな、と(?)。

存在に対する無条件の肯定感がベースにあり、その上で、これだけは守らなくてはならないルール、原理・原則を守るようにする。
主体性と公共性の相互成立と言いましょうか。

タグさんの意見は、現状のPTAに肯定的な人から、「行きすぎた個人主義ではないか?」、「独善につながらないか?」と言われるようにも思うのですが、そうした意見に対しては、ルール、原理・原則の析出と遵守をいっぽうで行えば、それが理想的な社会につながるはずだと言いたいです。

PTA問題に現れている日本社会の問題は、個人をないがしろにするだけではなく、原理・原則、社会的なルールもいっぽうでないがしろにしていることだと思います。
(原理・原則、社会的なルールをないがしろにする・社会的なルールの析出の努力を怠っている。)

御コメントに刺激され、吠えてしまいました^^;。
分かりにくいところや突っ込みどころがありましたら、ビシビシとお願いいたします。

恩ブログにて、拙ブログをご紹介、評価くださり、感激しています。
以前に書いた記事のいくつかを改めて読むことができました。ありがとうございます。