2010-06-07 16:44:42
罪の文化と恥の文化
テーマ:日本人論
前エントリーで、ルース・ベネディクトの「恩」をめぐる考察を紹介した。『菊と刀』の中で日本を特徴づけるものとして大きく取り上げられているもう一つのものとして、「恥」がある。(あとひとつは、「義理」か。)
考察は、後日を期するとして、まずは、当該部分を引用しておく。なお、以下の引用は、社会思想社版より。
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さまざまな文化の人類学的研究において重要なことは、恥を基調とする文化と、罪を基調とする文化とを区別することである。(…)罪を犯した人間は、その罪を包まず告白することによって、重荷をおろすことができる。(…)恥の文化には、人間に対してはもとより、神に対してさえも告白するという習慣はない。幸運を祈願する儀式はあるが、贖罪の儀式はない。
真の罪の文化が内面的な罪の自覚にもとづいて善行を行なうのに対して、真の恥の文化は外面的強制力にもとづいて善行を行なう。恥は他人の批評に対する反応である。人は人前で嘲笑され、拒否されるか、あるいは嘲笑されたと思いこむことによって恥を感じる。ただしかし、恥を感じるためには、実際にその場に他人がいあわせるか、あるいは少なくとも、いあわせると思いこむことが必要である。ところが、名誉ということが、自ら心中に描いた理想的な自我にふさわしいように行動することを意味する国においては、人は自分の非行を誰一人知る者がいなくても罪の意識に悩む。そして彼の罪悪感は罪を告白することによって軽減される。
アメリカに移住した初期のピューリタンたちは、一切の道徳を罪悪感の基礎の上に置こうと努力した。(…)しかしながらアメリカでは、恥が次第に重みを加えてきつつあり、罪は前ほどにははなはだしく感じられないようになってきている。(…)しかし(…)われわれは恥辱にともなう烈しい個人的痛恨の情を、われわれの道徳の基本体系の原動力とはしていない。
日本人は恥辱感を原動力にしている。(…)恥を感じやすい人間こそ、善行のあらゆる掟を実行する人である。(…)恥は日本の倫理において、「良心の潔白」、「神に義とせられること」、罪を避けることが、西欧の倫理において占めているのと同じ権威ある地位を占めている。(…)
日本人の生活において恥が最高の地位を占めているということは、恥を深刻に感じる部族または国民がそうであるように、各人が自己の行動に対する世評に気をくばるということを意味する。彼はただ他人がどういう判断を下すであろうか、ということを推測しさえすればよいのであって、その他人の判断を基準にして自己の行動の方針を定める。
(ルース・ベネディクト『菊と刀 日本文化の型』社会思想社,p.257~259)
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考察は、後日を期するとして、まずは、当該部分を引用しておく。なお、以下の引用は、社会思想社版より。
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さまざまな文化の人類学的研究において重要なことは、恥を基調とする文化と、罪を基調とする文化とを区別することである。(…)罪を犯した人間は、その罪を包まず告白することによって、重荷をおろすことができる。(…)恥の文化には、人間に対してはもとより、神に対してさえも告白するという習慣はない。幸運を祈願する儀式はあるが、贖罪の儀式はない。
真の罪の文化が内面的な罪の自覚にもとづいて善行を行なうのに対して、真の恥の文化は外面的強制力にもとづいて善行を行なう。恥は他人の批評に対する反応である。人は人前で嘲笑され、拒否されるか、あるいは嘲笑されたと思いこむことによって恥を感じる。ただしかし、恥を感じるためには、実際にその場に他人がいあわせるか、あるいは少なくとも、いあわせると思いこむことが必要である。ところが、名誉ということが、自ら心中に描いた理想的な自我にふさわしいように行動することを意味する国においては、人は自分の非行を誰一人知る者がいなくても罪の意識に悩む。そして彼の罪悪感は罪を告白することによって軽減される。
アメリカに移住した初期のピューリタンたちは、一切の道徳を罪悪感の基礎の上に置こうと努力した。(…)しかしながらアメリカでは、恥が次第に重みを加えてきつつあり、罪は前ほどにははなはだしく感じられないようになってきている。(…)しかし(…)われわれは恥辱にともなう烈しい個人的痛恨の情を、われわれの道徳の基本体系の原動力とはしていない。
日本人は恥辱感を原動力にしている。(…)恥を感じやすい人間こそ、善行のあらゆる掟を実行する人である。(…)恥は日本の倫理において、「良心の潔白」、「神に義とせられること」、罪を避けることが、西欧の倫理において占めているのと同じ権威ある地位を占めている。(…)
日本人の生活において恥が最高の地位を占めているということは、恥を深刻に感じる部族または国民がそうであるように、各人が自己の行動に対する世評に気をくばるということを意味する。彼はただ他人がどういう判断を下すであろうか、ということを推測しさえすればよいのであって、その他人の判断を基準にして自己の行動の方針を定める。
(ルース・ベネディクト『菊と刀 日本文化の型』社会思想社,p.257~259)
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