2010-08-03 20:09:32
集団を超越するものとしての、個人の自由とパブリックの精神
テーマ:日本人論
(一応完成)
本日、二投目です。
土居健郎氏が『「甘え」の構造』第二章「内と外」の中で、「新しい公共」を考えるうえで、示唆に富むことを述べている。
土居氏は、日本語の「内」という言葉の用法に注目し、日本における「集団」の強さと、個人の弱さについて次のように述べる。
**(引用)**
内という日本語が、身内とか仲間内というように、主として個人の属する集団を指し、英語のプライベートのように、個人自体を指すことがないのは注目すべきことであると思われる。日本では、集団から独立して個人のプライベートな領域の価値が認められていない。したがって人格の統合の価値が認められるということもあまりない。このことは先に遠慮を積極的に価値づけるプライバシーの観念が従来日本に乏しい、とのべたことと関係がある。また後にのべることであるが、日本で西洋的自由の観念が容易に根付かないことともこのことは関係があるのである。
(太字色付け、引用者)
*********
ここまではよく聞く議論かもしれないが、土居氏は、日本において「集団」が力を持ついっぽうで確立されていないのは、個人の自由だけではなく「公共の精神」であるとも言うのだ。
**(引用)**
日本には集団から独立した個人の自由が確立されていないばかりではなく、個人や個々の集団を超越するパブリックの精神も至って乏しいように思われる。
*********
日本においては、「内外」の区別ははっきりしているが、「公私」の区別ははっきりせず、その結果、公私混同が起きやすく、学閥、藩閥、閨閥等の閥が跋扈しやすいのだとも。
閥が跋扈するのは日本に限られたことではなく、日本で特に顕著な「内と外」の区別も人間一般に共通した傾向でもあるとしつつ、次のように述べる。
**(引用)**
しかし少なくとも欧米の社会にあっては、このような自然的傾向をチェックするものとして、一方に集団を超える個人の自由の精神があり、他方にパブリックの精神があったということができるのである。
*******
そして、従来の日本でパブリックの精神にほぼ相当する機能を果たしてきたのは、「おおやけ(≒皇室)」ないし本家の考え方であるとしその機能を認めつつ、「『おおやけ』にせよ本家にせよ、それ自体最も由緒ある閥なのだから、閥を超えた本当の意味でのパブリックとはなり得ない。」とする。
日本において欠如しているのは個人の自由とパブリックの精神であり、不当に力を持ってしまっているのが「集団」であるというこの土居氏の議論は、私がPTA問題を通じて感じてきた日本社会の問題性を鋭く言い当ててくれているように思うのだ。
従来の「公共」は、土井氏の指摘する「集団」と「公共」の区別があいまいだったように思う。
公共の名のもとに特定の集団に利益がもたらされていたように。
公共の名のもとに個人の自由が抑圧され、プライバシーが侵害されていたように。
ローカルな集団であることをどう越えていくのか?
個人の自由をどう尊重し、確立するのか?
「新しい公共」というからには、ぜひともこのような点を追及していく必要があるはずだ。
なお、ここで指摘されている「集団」内部における依存欲求が「甘え」に他ならない。
本日、二投目です。
土居健郎氏が『「甘え」の構造』第二章「内と外」の中で、「新しい公共」を考えるうえで、示唆に富むことを述べている。
土居氏は、日本語の「内」という言葉の用法に注目し、日本における「集団」の強さと、個人の弱さについて次のように述べる。
**(引用)**
内という日本語が、身内とか仲間内というように、主として個人の属する集団を指し、英語のプライベートのように、個人自体を指すことがないのは注目すべきことであると思われる。日本では、集団から独立して個人のプライベートな領域の価値が認められていない。したがって人格の統合の価値が認められるということもあまりない。このことは先に遠慮を積極的に価値づけるプライバシーの観念が従来日本に乏しい、とのべたことと関係がある。また後にのべることであるが、日本で西洋的自由の観念が容易に根付かないことともこのことは関係があるのである。
(太字色付け、引用者)
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ここまではよく聞く議論かもしれないが、土居氏は、日本において「集団」が力を持ついっぽうで確立されていないのは、個人の自由だけではなく「公共の精神」であるとも言うのだ。
**(引用)**
日本には集団から独立した個人の自由が確立されていないばかりではなく、個人や個々の集団を超越するパブリックの精神も至って乏しいように思われる。
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日本においては、「内外」の区別ははっきりしているが、「公私」の区別ははっきりせず、その結果、公私混同が起きやすく、学閥、藩閥、閨閥等の閥が跋扈しやすいのだとも。
閥が跋扈するのは日本に限られたことではなく、日本で特に顕著な「内と外」の区別も人間一般に共通した傾向でもあるとしつつ、次のように述べる。
**(引用)**
しかし少なくとも欧米の社会にあっては、このような自然的傾向をチェックするものとして、一方に集団を超える個人の自由の精神があり、他方にパブリックの精神があったということができるのである。
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そして、従来の日本でパブリックの精神にほぼ相当する機能を果たしてきたのは、「おおやけ(≒皇室)」ないし本家の考え方であるとしその機能を認めつつ、「『おおやけ』にせよ本家にせよ、それ自体最も由緒ある閥なのだから、閥を超えた本当の意味でのパブリックとはなり得ない。」とする。
日本において欠如しているのは個人の自由とパブリックの精神であり、不当に力を持ってしまっているのが「集団」であるというこの土居氏の議論は、私がPTA問題を通じて感じてきた日本社会の問題性を鋭く言い当ててくれているように思うのだ。
従来の「公共」は、土井氏の指摘する「集団」と「公共」の区別があいまいだったように思う。
公共の名のもとに特定の集団に利益がもたらされていたように。
公共の名のもとに個人の自由が抑圧され、プライバシーが侵害されていたように。
ローカルな集団であることをどう越えていくのか?
個人の自由をどう尊重し、確立するのか?
「新しい公共」というからには、ぜひともこのような点を追及していく必要があるはずだ。
なお、ここで指摘されている「集団」内部における依存欲求が「甘え」に他ならない。
力を持ったものが何をしても良いわけでは無い。
人は、孤独を恐れと感じるでしょう。
それは遺伝子や本能のなせる
技なのかもしれない。
霞が関の学閥は巨大な力関係があり、
どんなに成績優秀でも最終的に(家柄)まで
影響する様子で、東大の法学部を主席に近い
成績で卒業できるのに、そのルーツがネックに
感じて就職では民間を選択する人も居る話は
時折耳にします。
それほど、人は個人になると弱いものであり
また人間が社会を形成する上で
自然の流れかもしれませんね。
インドのカースト制度が色濃く残る中で育った友人は、親が決めた以外の人と結婚したのですが
その時に家族から(キャスト)が違うと反対された話を聞いて本当に驚いたのを覚えています。
直訳して考えた私ですが、その根底には違うニュアンスがあることを知りました。
PTAも同じ人間の営みとして考えるなら
(新しい公共)も(おやじの会)も(PTA)も同じです。
日本において、そのことを改善できる大きな事が起こらない限り、この教育は続くだろうと思います。そうであるならば、人として関わらない選択は必須になる気がします。
私は、いかなる事があろうが、人の尊厳は守られるべきだと思います。しかし、一度 力を手にしてしまうと、暴走する人も居るし、陰で賢く動く人も増えるのでしょう。
それが社会と言うものかもしれないと、漠然と感じています。